第2節 綜合学園への道 ―その夜明け前―

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昭和41年という年は、科学技術の異状を進展により、アメリカやソ連の科学陣が月世界に挑戦し、遂に、月面軟着陸に成功した年であった。又、わが国においても、高度成長の真只中であり、漸く、その矛盾が露呈し、特に、青少年層によるカウンター・カルチャーが、学生運動という形態で各大学に、紛争をまき起していた年でもあった。
本学園にとって、昭和41年からの約2年間は、吉凶禍福相交差する激変の時代であったということがいえる。それは、安城学園大学の前身の愛知女子大学、同短期大学部、同附属幼稚園が設立許可され、総合学園としての道へと、一歩踏みだした年でもあったし、附属高校の生徒4名が、3ケ月に亘って、アメリカの姉妹校、ジョンズヒル・ハイスクールに、親睦研修のため派遣されたり、附属高校、城西高校合同の「学園紀要」や、大学の「研究論集」が創刊され、やっと教員の研究態勢も整い始めた年でもあった。昭和41年4月には、元学長の二木謙三先生が逝去され、続いて、同年5月には、創立者の一人寺部だい園長先生が、忽然と永遠の眠りにつかれ、更に、同年8月には、理事長に就任間もない寺部二三子先生が他界された。
創立者にとって、4年生大学の設立は一種の執念にも似た一生の願望であったと考えてよい。創立者は、この事業達成のため、80歳を越した老の身に自ら鞭打ち遂に、そのことが、何十年もに亘って玄米食で鍛えた強靭な身体をも、病魔に侵される誘因となったと思うが、いずれにしても、たった3ケ月位の間に、理事長が、相ついで亡くなるということは、運命の悪戯としかいえない不吉な予感を全学園に与えたと言える。葬儀をすますと、理事会は、事態収拾に全力をあげ、故杉原博先生が理事長に就任された。しかし、学園をとりまく事態は極めて深刻であった。

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当時学園の財政収入を主として支えてきていた附属高校は、昭和39年度頃からの生徒急減期の波を蒙り、生徒数が激減してきていたし、安城学園大学、城西高校、大学附属幼稚園は新設のため、定員にどれだけ近づけるかに必死であった。僅かに、安城学園女子短期大学と、同附属幼稚園が、辛じて定員を満たしていたに過ぎなかったが、両校とも定員数が少ないため収入面への寄与は、左程期待できなかった。いわば、財政的には下降線を辿っている時に、城西高校、安城学園大学、同附属幼稚園と連続して事業が敢行されたので、これらの代金決済を含んで、学園財政は破局寸前の状態に陥っていた。

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