第3節 岡崎城西高等学校の誕生

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安城学園は安城市小堤において、女子短期大学を頂点に附属高校・附属中学校・附属幼稚園をあわせもち、三河地方随一の女子総合学園として世の広く認めるところまでに発展した。そして奇しくも、創立50周年にさいし、永い学園の歴史においてかってない画期的な飛躍をおこなった。当時、西三河地域には、公立の高校以外、男子のための高校はなく、それゆえ高校進学生の多くは、やむをえず地域をはなれて、名古屋・豊橋などの高校へ通学することを余儀なくされていたため、当地域に男子高校を新設することが望まれていた。男子の中学卒業生の進学率がますます増加の一途をたどる傾向が認められていたが、戦後のベビー・ブームの波は、昭和36年ごろより高校に押し寄せはじめ、これに対処するため、高校とくに男子高校新設の要望が、西三河地域の教育界においてより一層強まっていった。地元からその伝統と実績によって深い理解と信頼を寄せられていた学園に高校新設の白羽の矢が立てられた。けれども永年の女子教育から得た経験が男子教育に、どの程度通用するのかなどの懸念があったし、女子一貫教育の完成のためには、まだ種々の事業を推し進めねばならなかった時期に、それらを一時的にせよ措くことの是非が、だい先生の決断をにぶらせた。しかし、地元教育界の強い要望にこたえることが、安城学園教育の基本精神であり、社会への奉仕につながる道でもあると判断されただい園長は、昭和36年の夏、翌年度開校を目指して、男子高校創設の準備にとりかかる決心をされた。設立場所として西三河地方の中心地である岡崎市が選ばれた。岡崎市の元市長、太田光2氏をはじめとする岡崎市当局関係者や地域における各方面の方々の、好意ある協力もあって創設準備は急速に進められ、まず最初に、矢作川のほとり舳越町、中園町にまたがる農地2万余坪(6万6,000平方米)が、市の斡旋によって校地として決定された。校名も学園関係者による審議の結果、岡崎城のほゞ西に位置する高校ということで、“岡崎城西高等学校”と命名されることに決まった。県下の多くの高校が大体1万坪(3万3,000平方米)前後の敷地に建てられていたが、その2倍にあたる校地を購入することに決めたのは、安城・小堤校地での手狭さが学校の発展計画に幾多の困難さをもたらしたからで、岡崎・矢作校地で、それを再び繰り返したくないという配慮がもたらしたものであった。

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だい先生の自伝『おもいでぐさ』の中に「………現在の本校(安城校地)が………小さな塾から発足して継ぎ足し、継ぎ足しの連続で狭い上に、まことに雑然としたものであり、周辺の土地を買入れることも至難な状況になっているのに鑑みたのであります。」という先生の言葉を見出すことができるが、この時点でかなり余裕をもった広さであると考えられていたこの矢作校地に、昭和40年に安城学園大学の建物が出来、現在もはや手狭さをひしひしと感じるようになったことを考えるとき、昭和36年以来、わずか数年で学園が数段の発展をとげたことに、驚異の念を抱かずにはいられない。

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昭和37年4月の開校を目指しての努力があったにもかかわらず、安城校地での本館増築工事が前年の10月に終了したばかりで、資金面で苦しく、校地と決った農地を校地に転用する手続きに手間どり、そのうえ校舎建設工事にすぐとりかかることができなかったため、附属高校の岡崎城西分校として、とりあえず発足することになった。そして、岡崎市明大寺町茶園にあった元愛知県繭検定所を、新校舎完成までのあいだ、仮校舎として、借用することになった。昭和37年4月、設立認可を得て、安城学園女子短期大学附属高等学校岡崎城西分校が発足した。安城の本校からは、渡辺平三郎先生が分校主事として、安藤(祐)塚平、平野、中島の4先生が分校の中核として移られた。同年4月11日には、仮校舎で、202名の新入生、教職員22名の出席のもと、第1回の入学式が挙行された。このようにして、岡崎城西分校は、社会に有用な人材の開発――知識・技能修得のための知能を啓発し、身体練磨に努めることによって剛毅闊達な主体性のある若人を育成する――を目指して、西三河唯一の普通科私立男子高校として発足した。

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このようにして、校舎も運動場もない中で発足した第1回入学生であったが、無限の可能性を目指して、城西高校の歴史の第一歩を確実に築きあげていった。5月末には野球・バスケット・剣道をはじめとする8つの運動部ができ、前の空き地や愛知学芸大学(現、国立分子科学研究所)のグランドを借用して活動をし始め、秋には文化クラブもできて、20のクラブとなっていった。生徒会も1学期末には発足した。城西高校伝統の行事となる強歩大会も始まり10月末に岡崎の山間部42キロ米を歩きぬき、20キロ米の校内マラソン大会も2月に行われた。学力を高め、将来の進路をきりひらくための努力も、生徒、教師が一体となって行われた。5月からは、英・数の補習授業を始め、2学期からは学力別のクラス編成も行われた。いかにして基礎を築き、将来の発展に向けられるか、教職員は必死になって討議し、あらゆる方法を試みた。生徒達も真剣にこれに応えたのである。
この年の9月26日、岡崎市中園町字川成の現在地で、新校舎建設の起工式が行われた。寺部だい園長、渡辺平三郎主事をはじめ教職員、生徒全員が参列し、力強く拍手をうち、そしてこの年できたばかりの「城西健児の歌」を高らかに歌った。

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昭和38年4月、待望の新校舎が竣工した。岡崎城の西、中園町と舳越町にまたがる67,173平方米の敷地に、総工費9,150万円をかけ、延面積2,900平方米の鉄筋4階建の建物である。仮校舎からの移転が、全生徒の手の協力で行われたが、この真新しい建物に駆け上った生徒達は、実に晴ればれと喜びに満ちた顔で、すぐ下を流れる悠久の矢作川や、花がすみにかすむ岡崎城をいつまでも眺めいっていた。
この喜びの4月には、第2回生158名が入学し、1・2年生あわせて349名の生徒数となった。
グランドも体育館もない仮校舎から、この矢作の地に移って、気の遠くなる程に広いグランド――というより――草原が広がっているのであった。こうして草との闘いが始った。1面をおおう2米近い雑草は、鎌や草刈機では刃がたたない。やっと倒した草も、梅雨が過ぎると猛然と生え育った。体育の授業も運動部の活動も、草とりと整地から始った。草をなぎ倒し、石を拾い、土をならすと、矢作の河原からきれいな川砂をバケツに何杯となく運び入れるのが、毎日の日課であった。こうした草との闘いが、この後3・4年続いたのである。

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グランドを得たこの年の秋には、第1回の体育大会が行われ、伝統となる色別対抗戦、櫓を築いての応援合戦が始った。同じ秋には、第1回の文化祭も行われ、城西高校が、この矢作の地に根をおろしていったのである。
昭和39年4月、待ちに待った、岡崎城西高等学校が認可され、独立校としての第一歩が踏み出された。そして、高校教育に豊かな経験をもっておられた、岩城留吉先生が、学校長として就任された。
岩城学校長は、寺部だい園長の「建学の心」をうけつぎ、これをさらに敷衍して「質実剛健」と題する論文をしたためた。この中に、本校建学の精神の表現中にある「質実剛健」「己れに克つ」「三河武士の伝統をうけつぎ……」という言葉が明確にうち出され、それ以後、城西教育の拠りどころとなったのである。

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この年は、第3回生301名が入学して完成年度をむかえ、第1回生を世に送り出す年であった。4月当初、3学年の全校生徒650名を収容するため、特別教室の使用を余儀なくされていたが、5月には、かねてから増築していた校舎東部の8教室が完成したので教室難はこれで解消した。しかし、講師が多く、全教員の半数が経験の浅い教師であるなど教員組織が十分でなく、溢れるばかりの生徒のエネルギーに対して、学校長以下体あたりのとりくみを行ったのである。
卒業を前にした3年生に対して、4つの進路別コース(国公立大進学、私立理科大進学、私立文科大進学、就職・各種学校進学)を設定し、少人数の学級を編成し、補習授業、各種テストをできる限り多く実施した。他方、就職指導主事は各企業を訪問して求人の依頼をしたり、職業安定所や企業代表を招いて、就職懇談会を開いたりした。その結果は、オリンピック景気も幸いして、地元大企業や公務員をはじめ巾広く就職が内定した。また、進学希望者についても、大学から講師を派遣してもらい指導を受けるなど細心の配慮をした結果、国立大に3名合格したのをはじめ、地元、関西、関東の難関と目される大学へも堂々と合格していったのである。
そして、40年2月27日、第1回の卒業式の日を迎えた。卒業の歌に続いて「城西健児の歌」を高らかに歌う183名の卒業生の声に、教師たちは無我夢中で過してきた3年間を回想し、胸中に熱いもののこみあげてくるのを感じたのである。この卒業式の前日、同窓会の発会式が行われ、岡崎城西高等学校同窓会が誕生した。初代会長は河村21である。

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昭和40年度を迎えると、岩城学校長は、新しい施策をうち出していった。
第一は、徹底した生活指導である。この年4月から、従来許されていた長髪・皮靴を禁止し、丸刈り、運動靴にあらためた。外面の規則によって内面の改善をはかろうというのである。「精神の乱れは服装にあらわれ、服装を正せば、精神は自ずから健全な方向に向う。そして、生徒に校則・生徒心得を確実に守らせ、それから逸脱したいという弱い心、弱い己れに、生徒自身がうち克つよう指導した。夏休みには、担任が全生徒の家庭を訪問した。また、問題を起した生徒に対しては、「調査は指導である」との観点に立ち、徹底した調査を行った。そして、調査が終った段階では、生徒自身の中に十分な反省と今後の心構えが芽ばえていることが目標とされた。「あくまでも立直りの機会を与え退学はさせない」ことが本旨とされたのである。
第二は「5は3」教育である。即ち、在学3ヶ年に5ヶ年分の教育をし実力をつける。というのである。入学時には、中学校までに身につけておかねばならない学力や体力、情操などの不足する者を、高校卒業後は、競争の激しい大学や一流企業へも入れるように、3ヶ年のうちに中学3年から大学1年(に相当する)内容を履修させ徹底させるというものであった。そこでまず、教員組織の充実をはかった。(41年度には、17名の専任教員を採用した。)つぎに、教育課程の改訂を行い、2年生までは共通履修とし、3年生にのみ進路別に3コース(就職・文科系進学・理科系進学)をおき、各学年とも週35時間授業を実施した。また、早朝補習を週に、1年生が3日、2年生が4日、3年生は5日行った。毎月校内実力テストを行い、西三・旺文社などのテストや文部省主催の能検テストも全員受けさせた。夏休みには、3年生40日、2年生30日、1年生20日の特別補習を、冬休みにも9日間の特別補習を実施したのである。
当時のクラブ活動は、伝統のなさと施設の不備もあって活発とはいえず、運動部も「出ると負け」といった状況が続いていた。そこで、40年度から、生徒の積極性を刺激しひき出すために、全員参加によるクラブ活動にふみ切った。800名弱の生徒が、文化系15、運動系12のいずれかのクラブに入って活動することになった。このクラブ活動を発展させる大きな力となったのが、体育館の竣工と運動クラブ棟の建築であった。

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この体育館竣工式は、昭和40年11月12日、開校4周年記念式を兼ねて行われた。中学校長をはじめ、地域各界の名士200余名が列席されたが、この式典に見られた城西高校生徒のきびきびした態度と厳粛な式典を通じて、生徒達への高い評価と今後への期待が寄せられた。こうして、発足間もない岡崎城西高校の大きな飛躍への第一歩がしるされたのである。この竣工なった新体育館で、翌春には第2回の卒業式が挙行された。
この体育館の延床面積は、1,585.552平方米、建築面積は1,356.250平方米で、平屋建一部2階である。附属施設としては、体育職員室、保健室、吹奏楽室、倉庫などがある。建築費は、5,818万円であった。

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昭和41年1月3日、剣道部は、岡崎市民大会で堂々と優勝、個人の部でも1位から4位までを独占し、優勝旗・優勝杯を獲得した。始めての快挙であった。この秋、剣道部は西三大会でも優勝し、さらに県大会3位と大いに気をはいた。翌42年には、陸上部が岡崎市民駅伝大会で初優勝し、「城西強し」の印象を与えた。文化クラブでも、41年秋に美術部員の作品が、産業貿易展に入選したのをはじめ、42年には「城西美術展」を行い、「安城学園美術展」に写真部と共に参加した。さらに個人では、43年に3年生の山本和夫が、学生広告論文に応募し1位となり文部大臣賞を受けたり、東海地区英語弁論大会で高木修が第2位に入賞するなどの活躍があった。

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学校行事では、開校以来、男子らしいものが行われてきたが、昭和40年から質朴さを加えた。修学旅行は、それまで九州へ行っていたが、41年には「健児の旅」と改称し奈良県大台ヶ原へ2泊3日の旅となった。体育祭は体育大会となり、内容にも余興的なものはほとんど無くなった。41年秋の体育大会に、最後の種目である騎馬戦終了の直後、興奮さめやらぬ生徒達が、本部席に走り寄ると校長の身体が大きく空中に舞うというハプニングがあった。この校長胴上げは、男子らしい親近感のあらわれ、としてその後恒例となった。(危険をともなうので50年にとりやめとなった。)
伝統行事となった強歩大会も、41年には、例年より5キロ長い45キロコースで実施された。11月とは思えぬ寒風の中を、8時30分に学校を出発。岡崎市東北部の紅葉の美しい山中をクラス単位で歩いた。後半は10名位のグループをつくり検門を通って進んだが、山坂が多く疲労が目立ち、皆無口になっていった。滝山寺から青木川を下ると、日名ユニチカの煙突が見えたが、なかなか学校には近づかなかった。足にまめをつくり靴をぬぐ者が出たりしたが、午後4時40分全員が帰校した。この行事は、その後コースは変ったが現在まで継続している。

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その当時は、東・西加茂、北設楽からの入学生も20名近くおり、市内に下宿していた。これは生活指導上もよくないというので、学校の南西に出来たアパートを4室借りて学寮とした。夜は、国、数、英の教師が出張して自習指導を行うなど、学習効果をあげる1石2鳥をねらった。その後、43年4月には「伊賀寮」を開設し、一時は27名の寮生を擁したこともあった。(50年に閉鎖した。)
昭和40年4月27日、かねてから準備がすすめられていた、城西高校PTAの設立総会が開かれ、ここにPTAが発足した。初代会長は、岡崎市の伊藤守雄氏である。活発な活動が行われたが、中でも道路等改修の陳情運動は特筆すべきことであった。当時の通学路は、東西南北、いずれも不完全であった。狭く危険であり、雨が降ると靴が泥中に埋まり、生徒達は通学に難渋していた。そこで、学校とPTAが中心となって市や県に陳情を行ったが、これと平行して生徒達も、毎日交替で割石を道路に敷く作業を続けた。このお陰で、42年12月には旧国道1号線より矢作川堤への通学路が舗装されたのである。また43年には、日名橋の両側に巾1.5米の歩道・自転車道が架設され、生徒達の通学が安全となったばかりでなく、体育時の堤防1周コースも安定したものとなった。
昭和40年当時のグランドには、まだ所々に背の高さを上廻るほどの雑草が生え、水たまりさえあった。生徒達は、クラスに割りあてられた区域の除草作業を時々行い、体育大会などの前には特別整備作業を行ったのである。その後、ブルドーザーによる整地を時々行い、42年には、体育館東のテニスコートに砂入れが行われるなど、校庭の整備も次第にすすんでいったのである。
このように、関係者の懸命の努力により社会的評価も高まり、創立当初200名前後であった入学生も、41年度には296名、42年度は335名、43年度、342名と、第一次急増期が過ぎたにも拘らず、確実に増加していったのである。

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