第3節 創立25周年前後

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昭和11年には、本校開校25周年を意識して、安城女子専門学校と安城女子職業学校合同で『校報』を発行した。その内容をみると、昭和3年刊行の『校友会誌』とは全く趣を異にしている。巻頭に寺部三蔵、寺部だい両先生連名の「御挨拶」を掲げ、25年間における卒業生約2,000名を送り出し、現に約300名の在校生をかかえて、学校経営が安定している様子を述べ、「卒業生諸姉の厚き厚き母校愛護の御熱誠」に感謝して「今後益々奮励努力育英の事業にいそしむ」覚悟を表明している。
それにつづいて、専門学校の沿革、職業学校の沿革を載せ、さらに学則の摘要を掲げ、後半は、大多数のページ数を卒業者名簿にあてている。前半の記事が20ページであるのに対して、後半の卒業者名簿は実に53ページを費やしている。これは本校創立25周年を記念して、その校史と卒業者名簿を整理したものということができよう。
とくにこの卒業者名簿には、昭和10年度までの殆どすべての卒業生を収録してあり、貴重な記録となっている。

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昭和10年度の生徒数は『愛知県学事要覧』(昭和11年10月刊)によれば、職業学校が本科と選科を合わせて241名、専門学校は本科と別科を合わせて25名であった。
昭和11年3月の職業学校本科卒業生は76名であったが、そのうち県外からのものが31名を数えた。専門学校卒業者は11名のうち4名が県外出身であった。大正末期以来の県外出身者が多いという本校の伝統は依然として衰えていないのである。
その当時の教員は職業学校15名、専門学校20名とあるが、大部分は両方を兼任していたものと考えられる。校報には、山崎延吉校長を筆頭に、寺部三蔵、寺部だい、森和夫、藤綱藤太郎、安藤正剛、長谷川徳太郎、小野内一郎、浅井賞平、町田菊之助、椎尾辨匡、植村正雄、松平すゞ、久保くりゑ、町島喜久、杉浦ふみ、奥村繁子、西山慶子、田之江秋野、水谷美岐、寺部二三子の21名に及ぶ諸先生の名前がみられる。

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山崎延吉先生は、昭和11年1月に朝鮮へ出張し活躍中に健康を害した。耳が遠くなり左眼からさかんに涙が出るようになって物が見にくくなった。すでに還暦を過ぎていたが席の温まる暇のないほどの全国行脚が続いていた。その積年の疲労からついに安城にもどって静養することになったのである(『我農生山崎延吉伝』)。そのため、山崎先生は、安城女子専門学校校長の任を退くこととなった。
かわって理事長寺部三蔵先生が女専の校長を兼任することにした。しかし天下の大校長山崎延吉先生と無縁となってしまうことは、何とか歩みはじめたばかりの女専にとって著しいマイナスであったので、病気回復のあかつきには、校長に再任して貰うことを条件とした。

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約1年ほどの静養ののち、昭和12年3月17日付で、山崎延吉先生の女専校長再任が、文部大臣によって認可された。
さきにひいた『校報』に「最近実施せる科外2行事」として婦人講習会や家庭婦人講座の内容が紹介されている。婦人講習会は碧海郡内の各町村女子青年団幹部を対象として、専門学校の先生と生徒が中心となって、家事、裁縫、手芸の実習を行うものであった。安城女子専門学校を会場にして、昭和8年1月10日から連続2か月間にわたり、毎日午前9時から午後3時まで行なわれた。

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家庭婦人講座は、主婦または将来主婦となる17歳以上の婦人50名を募って会員とし、その他に一般聴講自由として、国民作法、和裁、洋裁、手芸、育児、洗濯、衛生、整容、廃物利用、婦人護身法など広範な内容を盛り込んだものであった。昭和11年11月にはじまって翌年の2月まで前後13回に及んでいる。職業学校と大日本連合婦人会、愛知県連合婦人会の主催となっているが、講師の大部分は、女専の先生方であった。
これらの不定期な講習会や講座の外に、毎年夏季には専門講座を実施していた。専門講座はとくに、本校出身の現職の先生方を対象にした先生の再教育としての役割をになっていた。そのため毎年夏期休暇中に開催し、遠隔地からの参加者には寄宿舎を開放した。
昭和6年に卒業生を送り出して以来、一時中断していた専門学校別科は昭和9年から再開された。昭和10年度の職業学校本科家政部卒業生のうち、専門学校へ進んだものは、わずかに2名にすぎなかった(『愛知県学事要覧』)。専門学校の基盤として位置づけられていた職業学校本科家政部においてさえ、この有様であったので、専門学校は毎年生徒募集に苦しんでいた。ついに昭和9年4月には専門学校本科への入学希望者は全くない状態となった。そこで専門学校の不振をカバーし、経営上の困難を打開するために別科を再開したのである。以後、修業年限2年で小学校裁縫・家事専科正教員資格がとれることもあって別科への入学者は途切れることがなく、つねに本科を上廻るほどの卒業者を送り出しつづけた。

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また、昭和11年には、経営的にも安定していた付属幼稚園が、市立保育園設立のために閉鎖のやむなきに至ったこともあって、その穴埋めのために、専門学校に修業年限1か年の家政科を置くことになった。それとならんで、職業学校内の実習部に時代の要求を組み入れた洋裁科を置いた(昭和9年より昭和18年まで職業学校勤務、和裁担当、舎監 築山のぶさん談)。築山のぶさんの語るところによれば昭和12年に洋裁を学ぶ希望者のために、校外に東海女子洋裁学院(安城市本通り)を設置した。これは、この地方における最初の本格的な洋裁教育機関でこの地方に洋裁を普及させた草分けとして特記しなければならないものであった。
昭和13年8月には、校地の北側に応接室12坪、調理教室30坪、家事室12坪、洗濯場18坪が新築された。これらは、いずれも専門学校生徒のための実験実習の場として活用されることとなった。

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