第7節 大正時代を通じての本校の種々相

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職業学校となってから年中行事となったものに、夏季講習会と作品展覧会がある。
夏休みは短かく、8月に入ってから10日乃至20日間位だったようであるが、この間に講習会が開かれた。受講者は、在校生及び卒業生が主であった様で、平生学期中に行えないものを短期間で教える、いわば補充的性格を持っていたようである。講習の内容は、袋物、日本刺繍、造花、しぼり染、洋裁手芸などであった。初めは校内の先生が講師となっていたが、9年頃からは外来講師も加わり、11年頃になると、東京から講師を招き、時代の先端をゆく新しい手法を教えた。だから、受講生は、非常に熱心で、開始時間前に行って、図案を写しとる程であった。また、遠方へ嫁いだ卒業生もわざわざ実家へ帰り、受講したということである。この講習会は、実際に役立つので、地域の人々や、小学校の教員も受講したようであり、地域の啓蒙の役割も果したのである。規定の時間受講すると、修了証が渡されたが、これも、受講生達の意欲を刺激したようである。

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また、年に1回生徒の作品を展示し、公開する展覧会が開かれた。細目に従って製作した裁縫の作品、刺繍、人形廃物利用の小物等その内容は種々変化に富んでいた。同時に即売も行ったので、近在の人々も、かなり大勢訪れ、盛大であったらしく、このことを語る卒業生の印象もかなり強くまた楽しげである。この展覧会も、講習会と共に、地域の人々に新しい眼を開かせると同時に、本校をPRする絶好の機会でもあったようである。

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つねに前進し、新しいものを求め続けていた校長だい先生は、教員の研修についても意を配っておられた。
時には、希望に応じ、時には指示を与えて名古屋や東京の先輩校の講習会に参加させたのである。例えば、大妻技芸学校での、絞染、摘細工、刺繍、綿細工、折紙など。女子美術学校の刺繍。また、椙山高等女学校の裁縫教授法など。新しいもの、優れた方法などを、どんどん取り入れ吸収していった。この研修の成果は、日常の指導に生かされ、夏季講習などにも立派に役立ったのである。
この頃、各種研修に参加しまた、安城女子職業学校発展の陰の力となった原田トキ先生(旧姓鳥居、寺部)は、つぎのように語っておられる。

安城裁縫女学校本科を大正4年1月に卒業と同時に母校の教生となって、校長先生と共に和裁の指導に当っておりました。突然、校長先生が申されますには「此の学校にも手芸を取り入れたいと思いますが、手芸のお出来になる先生が近くにありません。私の知人で小坂井に裁縫女学校を開いてみえる川出るい校長がおられます。つまみ細工を御存知ですから、是非御指導を受けて来なさい。」ということでした。私は寄宿舎に入り、毎日昼となく夜となく川出先生の御指導を受けました。最初は厚紙で型を切り、其の上に綿をのせ、絹又はちりめんの布で包み、裏で糊付けしたものを形を変化させて作り、其処へ絹布を四角に切って、角摘み、丸摘み、花や葉の形によって違うつまみ方にして糊で張りつけました。主として花が多かった様に思います。松竹、梅、桜の花、山吹の花、ふじの花、菊、萩、水仙の花等でしたが、出来上る度に、美しさと作る楽しさで我を忘れて2、3か月を過してしまいました。帰校し、早速校主並びに校長先生の御前で、一つ一つ説明を加えて見て頂きました処「美しく数も多く、大変な努力でしたね。」と申されました。これから手芸も取り入れて、和裁と共に展覧会を開催する様に申されましたので、一生懸命に指導いたし、出来上った作品は全部展示し、にぎやかに行うことが出来、大いに喜んで頂けました。それから私も手芸に興味をもつ様になり、もっと高度の手芸を学びたいと思って、校主、校長両先生の御許しを得、其の頃手芸を盛んに指導して居られました、東京都麹町区上6番町7番地にあります大妻高等技芸学校の講習部に入学出来る様許可を頂きました。しかし、その頃、安城駅より東京行の列車に乗る人は、一日に1人ある日が稀な位の時でしたので、非常に不安でしたが、意を決して上京致しました。新橋駅で下車、西も東も見当がつきません。人力車に乗って学校の玄関まで行き、受付で愛知県から来ましたと申しますと、前もってお知らせしてありましたから、すぐ様応接室に案内されました。校長先生が暫くしていらっしゃったので、希望を全部申しあげて早速手続きを終りました。最初はつまみ細工科の普通科で、細目終り次第高等科の細目、続いて水引細工科の普通科高等科、次に刺繍科の普通科高等科、更に絞染科、綿細工科、絞花科、びん細工科と全部終ったので作品をすべて持ち帰校しました。両先生に説明を加えてお見せ致した処「やはり東京での作品は違いますね」と細かい点、美しい点等に驚かれました。これだけ出来れば和裁と手芸を担当して少しも差支えないと申されました。其の年は、小学校の先生方を対象に、手芸の講習を担当し、大変喜んで頂けました。学校では展覧会開催と、それはそれは大変で御座居ました。

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当時の教科書は、裁縫等専門科目以外については、高等女学校で用いられていたものが使われたようである。これらを見ると、時代の風潮、本校の教育姿勢などを伺い知ることが出来る。

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これらの中で、沢柳政太郎著『修訂女子修身訓』巻一にはつぎの様な一節がある。(著者沢柳氏は、大正新教育運動の一翼を担い、成城小学校の創設者でもある。)

「身体の発育には一定の限ありて、如何によく摂生の法を守るとも其の限をこゆるを得ず。然るに智徳の進歩は其の極まる所なし。………我等は際限なく発達し得べき智徳の種子を具ふ。而してこれが発達は、父母師長の教導によること多けれども、また我等自身の決心勉強によること大なり。我等は自ら勉めて『学ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就』せざるべからず。」(傍点筆者)

すべての女性が、無限にその能力を伸ばしていける可能性を秘めていることが、はっきりと記されている。しかも、その可能性の実現は、自分自身の意志と努力によって達成されるというのである。もえるような意欲をもって学んでいた当時の女子生徒に、この言葉は、どんなに励ましと喜びを与えたことであろう。その眼の輝きをほう彿とさせるものがある。こゝには、大正新思潮の流れをはっきりと読みとることが出来ると共に、本校の建学の精神の息吹きが感じとられるのではなかろうか。

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