第1節 教育環境近代化への第一歩

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昭和30年代の学園の変貌には目を見張るものがあった。戦後10年が経過し、新しい教育制度とその内容に一応の定着を見つつあった。20年代に起った朝鮮戦争は日本の経済復興を促進させ、30年代のはじめには、それから20年間近く打ち続いた日本経済の好況の第一波をもたらした。日本経済に生じたゆとりは教育環境―とりわけ木造校舎の鉄筋化―にも目を向けさせうることになった。

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度重なる天災によって、木造校舎の老朽化が著しく進行し、校舎の改築が痛感されていたことは当然ではあったけれども、それにもまして戦後の新しい教育においては、互いに反映し合う外観と内容の統一によってのみ稔り多い教育を期待することが可能であるという視点をもった学園は、校舎・設備等近代化へのあゆみを他校に先がけてはじめた。
昭和31年4月、各校舎を連絡する通路の舗装化がおこなわれた。この年から上履きはスリッパから校内運動靴に変えられたが、舗装化によって校内、ことに教室内の土ぼこりが少くなり、以後の学園の環境に、より女性の学校らしい雰囲気を生みだして、環境の美化に気が配られる転機になった。

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昭和30年の秋に着工された鉄筋3階建の本館が翌31年11月に落成した。1階にはそれまで木造校舎にあった園長室、短大、高校の職員室、事務局が移され、2・3階は短大、高校の教室や工作室に当てられた。竣工早々、屋上は体育の授業に使用され、若人の鮎のように飛びはねる姿が見られた。屋上からは、丘一つない安城の野が眼下に拡がり4季折々の田園風景が屋上で憩う生徒達の心を豊かにした。本館が学園最初の鉄筋建物であっただけでなく、屋上に立って市内を眺めたとき、このような建物は他に見られず、当時の安城において唯一の近代的な建物でもあった。クリーム色のカーテン、湾曲した濃緑の黒板などすべてが新しく、青春の一時期を送るにふさわしいこの教育環境の完成を、学園関係者はすべて心から喜んだのであった。なお、現在本館屋上にあるウエストミンスター・チャイムはこの年度の第9回高校卒業生によって寄贈されたものである。

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本館の完成とともに、西門を入ってすぐ左手、事務局のあった平屋の建物の一隅にあった図書室は、向い側の2階木造校舎の階下(前高校職員室)へ移転した。それまで数本の書架が並べられているだけで閲覧室もなく、図書の貸出事務がささやかに行われていたにすぎなかったが、移転と同時に整理カウンター・閲覧机・スチール製の書架が設備され、学園の一隅に静かに読書のできる場所がはじめて誕生した。昭和32年ごろから図書の購入も数を増していったので、基本分類カードの作成が、図書委員の先生や生徒らの手でおこなわれるようになった。昭和35年には、はじめて図書館司書(北川嶋さん)がおかれ、図書室の機能は一層本格化した。昭和30年までには、わずか2,500冊だった蔵本数も昭和39年には1万冊にまで増えていった。この図書室は昭和41年、愛知女子大学(安城学園大学)が誕生して、旧短大生活科ビル2階に移るまで短大生・附高生の学習中枢として親しまれた。

安城学園3年生(『安城学園45年史』より転載)
河合哲行

生来のなまけ癖がいまだになおらない。この頃では、自分ながらに感心している。そういう男、すなわち僕に安城学園の歴史を語れ、とのお話を伺ったので即座に固く辞退して逃げようとした。我儘で横着なのは、僕の最大の、しかも誰もが認めてくれる半ば公認的な性質である。職員室の諸先生方は勿論、3年生の諸君なら誰もが知っている。そういう僕の非は先天的な祖先の因果にもみ消して項いて、――と弁解していたら秋の日はとっぷり暮れた。明日までには必ず――塚平君が催促に来た。書けと言われて書くつらさはまた1しお。仕方なしに原稿用紙に4ッに組んでみた。
初土俵は3年前(昭和30年)。その春、僕は八幡神社の前に、しょんぼりたゝずんだ。安城学園女子高等学校、人に問いながらやっとこゝまで来たのである。けれど、ぼんやり眺める範囲には学校らしき建造物は眼に入らない。妙に石の大きな鳥居だけが白く映った。今でも朝夕2度はこゝの前を通らしてもらう。頭こそ一度も下げたことはないが、鳥居を仰いでは、その頃をふっと思い出す。もっとも最近では年のせいか、その脇の「神前結婚」の立札が奇妙に目につくが――。
校門といえば、4季カビの生えたような、犬も通わぬ程の細い道に面していた。しかし数だけは3つばかりあった。北の門は、床の抜けそうな調理室に通じ、次の門は狸にばかされるような袋小路であった。一番南側の門がいわゆる正門と称する、中でも最も広い門であった。けだし、正門とは名ばかりで今朝のような北から吹く秋風に似て、夜空を感じる程であった。左手に、それは今も変りはないが、松とほそ葉と柿の木があって、その葉蔭に布宮君ならで、二宮金次郎がうつ向いて読書していた。
突き当りに職員室(現在の図書室の西半分)が、道を隔てゝ左側に事務局(室)があった。今では美術室になっているが、そのガランとした部屋の隅に、衝立で間じきりして事務を執っていた。日当り悪く底冷えがして、夏でも煉炭が必要と思われた。ほんの4、5坪ばかりで、ドアを押すと、二三子先生がこちらを向いて、どっかり坐しておられた。
図書室もこゝにあった。事務局の前を通路にした残りの面積だけで、しかも場所がら暗く利用者も極めて僅かであった。
職員室も狭く極端に言えば、名犬アリアンの犬小屋に毛を生やしたくらいであった。その中に大勢の先生方が里芋の如くに詰込まれていた。
校舎の変遷を申そうものなら、中央校舎から南の家庭科の校舎の間は何もなかった。たゞ足の腐りかけた鉄棒と砂場が忘れられたように残っていた。当時は勿論新館(本館)はなかったから、東へずっと講堂にかけて、細く運動場が延びていた。運動会も僕達の赴任する前年までは、ここで力んでやったそうである。
現在の普通科1年(B・C)の校舎は、今回完成した新調理室の所にあって、当時は廊下は鶯張りならで、弓なりに浮いていた。傾いていたから、外には丸太が柱ごとに支えてあった。それを解体して移築したものである。
更に講堂と家庭科を結ぶ間には、短大の寮があった。新調理室の東に並ぶ2棟の白壁の寮は見る目も新たであるが、それも、昨年(昭和30年)の夏、1夏の午さがり、大勢の人夫を動員して、エンヤ、コラサでずるずる引っ張って改装したのである。
完備した今は、草もないが、ひところは、夏草生い茂るつぶれかゝったテニスコートがあったのだ。僕が昭和の芭焦なら、夏草の上に、かさを打ちしいて、時の移り行くまで、――国破れて山河あり――と杜甫の「春望」の詩を口ずさみ嘆じたであろう。しかれども、1たび建物の移築によって、人跡まれな荒廃の土が、朝夕、1,000有余の若い人の足に踏まれようとは、誰が想像しただろう。造化の神もこの偉大な人間の力には感服せざるを得ないであろう。学園の女生徒諸君を、ちょっぴり論じてみようなら、3年前はエレガントな人物が少なかった。ジヤンバースカートというのは、背が高くウエストの23インチ以下の人には、ぴったり女学生らしき味わいをもたらすものらしいが、不幸にして日本的姿態には合わぬ。それは抜きにしても、スカートのヒダの跡形もない人さえよく見かけた。それに何時洗ったとも知れぬ運動靴を、まるでスリッパのようにつっかけて登校するのさえ見た。歩くたびに煙があがる。後をついて歩こうものなら学校につくまでには鼻の穴が黒くなりはしまいかと心配でならない。そういう人はもう居ない。当時そうして歩いた方々も、何時かは気がついて、現在はきっと立派な近代的な女性に成長しているだろう。ジヤンバースカートも、3年生が名残りをとゞめるだけで、来春からは永久に姿を消すだろう。見おさめの制服に対する愛着は1しお胸にせまるものがある。歴史は繰返す、と言うが来春を最後に永遠に没してしまうかも知れない。

ポプラも本館建設にあたって、数本倒されて、残るは5本の指に余るであろうか。それも枝をちぎられて、秋の高い空が浮いている。心配するなかれ、ポプラはなくとも子は育つ。僕は最初の年、生1Aの担任だった。山内先生が普通科1年(30年より新設)安藤先生は生2Aだと記憶している。自分の担任の生徒を見て――こんな小さな女の子――僕はひそかに淋しく感じた。同時に生徒諸君の側から見れば――頼りない担任――そう感じたに相違ない。けれど心配はいらぬ。お互いに同じ屋根の下で3年間、大小の差はあっても、似たような弁当を食べている間に、それぞれ成長して来た。立派な大人になって、この頃ではこちらが仰ぐようになった。ジヤンバースカートによせて、卒業の日の近いのを人知れずに喜んでいる。加うるに、2年生もめっきり落着きが見えているし、活気ある500人の1年生にも、力強さを感得する。
一昨年あたり、市内3校職員ソフトボール大会に際しては、男子の先生総出演でやっとポジションを埋めたのであった。1塁鈴木修先生、3塁山内君、捕手安藤君、遊撃が僕であった。はばかるところを知らず得意満面でやっていたのだから推して知るべしである。授業についても同様、少ない男子の軍勢で心もとないものであった。こちらが気をまわす先に生徒は見抜いていただろう。ただ不備なところは若さのベールに包んでいてくれたに相違あるまい。
仕事の面でも、一人二役三役は当然とされていた。僕等の来る前年までは、中村先生は新聞も雑誌も演劇も一手に引受けられたそうである。そういう時代の波を知る修先生達の苦労は想像に余りある。先生の頭の毛の薄くなったのも、それが少なからず災しているだろうと、僕は時々そう考えるのである。
運動クラブの話に触れてみるならば、やはりソフトボールは抜群であった。今年で3年連続全日本の大会にも国体にも出場している。最近では出場が最大の目的ではなくて、一歩進んだ考えにまで及んでいる。夏の西宮球場などは学園のホームグランドぐらいに思う時もある。監督三重次先生、小川先生の汗の結晶を忘れて、こちらの低い鼻を高くしている。伺ったところでは、三重次先生の前は二三子先生の御妹さんが指導されていたそうだ。ソフトクラブの創設者として記憶を胸にとゞめたいのである。それから時折中庭で練習した頃も併せて忘れないでほしい。
体育の先生も、一昨年は一人であったし、それ以前は講師であったらしい。今年は三科、大和、小城と3先生の力によって、いつにない盛大な体育祭が催された。歴史を語れとおっしゃるなら、3人の女の先生方の手による体育祭は、学園の歴史として一挙すべきであろう。
この他に、特筆すべきことは、文化クラブの活躍も見逃せない。新聞、演劇の発展ぶりは日進月歩の躍進を、演劇に見、記事のそれに見、木村先生、徳丸先生の表情に見るのである。
図書室もひところの日蔭の場所とは違って、図書と言えば長谷先生とイコール呼ばりをされるに及んだ。図書の数も日毎に増えて、研究の場は限りなく拡げられている。
中学校も「4ツ葉のクローバ」として、山内先生を先頭に再発足した。高校の方では商業科も新設されて、総合高校として全く充実の感を深めている。
一歩外に出ると、黄金の稲が波立つ。
みのるほど頭を下げる稲穂かな。
である。今年も豊作で、こと安城界隅にかけては、花火の数もいや増している。3年連続の豊作と聞く。さらば、職員室にも豊作が続いてよいもの。修先生が職場結婚をされてから、三重次先生が昨年。平均年令の若い職員室にあっては、稲の3年連続の豊作もよそに3年続きの不作にならぬように、景気のよい花火を挙げて頂いてもよい。
職員室も、普通教科、被服科、食物科と3つに独立してから、各々異った雰囲気で活躍している。学校はその上にどっしりと構えている。
3年間のうちに学校の敷地も変った。四方の道路も車道となったし、家並みも目立って来た。西門の南には御下宿があって、学園の若い先生達が起居している。こゝばかりでなく東の方の質屋さんにも、同じ様な先生方が下宿されている。まだこの他にもある。
学校の発展は確かに界隈の環境も変えた。死んでいた大地が急に生き返った。1,500人の生徒数になるも遠くない。私学の自由な発展はそこにある。幅広く様々の若人が集り散じて行く。それこそ私学の最大の特色と喜悦である。
勝手に言いたい放題に喋って失礼と今更穴があったら顔を埋めたいものだが、思うに任せて書ける様になったのも学校が充実したからである。
詰らぬ弁解を述べるより、詰らぬことを論じたことが、学園の歴史の片端に載るならば幸甚である。

竣工式を祝う(『ポプラ』昭和31年号より転載)
平野初美

新校舎の屋上に登って市内を眺めてもこんなに近代的建築の粋を集めたビルデングは安城市内の何処にも見られない。いうならば私達の誇りはとりもなおさず安城市の誇りでもある。丘一つない平野にそびえ立つこの白亜の殿堂は乙女の学府のセンターである。
つい最近まで私達は狭い校舎でひしめき合って学んでいた。暗い教室の中から、わびしい無情な雨の音や吹き荒れる風の音を重い気持で聞いていた。長いこと心願した校舎であった。校庭のまん中に縄がはられた昨年秋、校庭のほとんどが工事現場となった悲喜は今も耳に新たである。日毎に私達の憩の場もなくなるにつれて、工事の音は高くなった。10数丈の高い櫓が立った時には地面は深く掘り下げられ、そこには数知れぬ鉄骨ががっちりと仕組まれていた。授業中威勢よく聞えるセメントを練る音は、私達には騒音というよりむしろ一つの躍動的なリズムであった。休憩のサイレンに胸をときめかせて、無心に工事過程を見守ったのもその頃であった。やがて、見上げる3階まで青いセメントで固められると、工事はとみに目に見えて来た。昨日黒かったコンクリートが今日は目を覚ましたように明るい色に変っていた。窓のワクがはめられると、数日たって大きな鏡のようなガラスが私達の顔を写した。床板も驚くべき速さで水も通わぬようにぴっしりと張りめぐらされた。その時、一度だけでも屋上へと、あたかも山へ登るが如き心を抱いたのであった。

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待つこと久し、その日がやって来た。一歩を争って息を絶やしてかけ上ったのである。初めて知る安城の下界、そして、一望千里、彼方には青い空と白い夏の雲が力強く光っていた。私達が詩人になった時もその時であった。
環境は詩人をつくり学者をつくる。その環境こそ、今登り、今学んでいる新らしい白亜の殿堂なのである。喜びも悲しみも白い教室に吸いこまれ発散されて行く。活ある人間に育てあげてくれるのも新しい校舎なのである。しかも、白い校舎は古い暗い教室までも明るく反射した。すべての新らしいエネルギーの源泉なのだ。
屋上の合唱は光のごとく降りそゝぐ。見上げる校舎は無限に延びて真青な秋の空の果てまでも、くっきりと一本の直線を画いている。私達の歩むべき道、行くべきところはそこなのである。集り散じる乙女の胸にこの白亜の殿堂は正しい一本の直線を永遠に教えてやまないであろう。私はこの喜びを心の礎に祝うのである。

この頃より、短大生活科におかれた栄養士課程の履修を希望する学生数が増加の傾向を示しはじめたため、短大、高校で一つの調理実習室を共用することは困難な状況になった。ここに短大専用の調理実習室の新設が急務になった。昭和32年5月、鉄筋2階建の短大・生活科ビルが竣工した。だい先生は、新調理実習室を理想的なものにすることによって、学園とくに短大に新しい特色がつけ加わることを念願されて、当時としては斬新なアイディアが採用された。生活科ビル竣工後、短大生活科の講義は2階の2教室でおこなわれることになった。又2階にあった調理教員研究室が、この年に再開された附属中学校の教室に一時的にあてられた。1階は30名定員の階段教室、調理実習室、実習準備室、食品・栄養化学研究室からなり、器具のステンレス化など、当時としては最新の設備が整えられたのは勿論のこと、従来たとえ清潔であるように見えても、薄暗く、空気のよどんだ調理実習室が多かったなかで、採光と換気に特に留意した、新しいタイプの調理実習室が完成された。階段教室で受けた講義や、教師の模範調理を意識の途絶えなく、ただちに実習に移ることができるよう教室と実習室が無隔壁で並行するようにレイ・アウトされ、高度の教育機能をそなえた特色のある実習室であったため、当時他の高校、短大で新・改築された実習室の原型となった。新調理実習室の特色は寺部だい先生、当時短大の調理実習を担当されていた故安藤らく先生を中心に、多くの調理担当の先生方が考えられたアイディアを集大成したものであった。

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昭和33年6月、本館と短大生活科ビルの間に鉄筋2階(一部3階)の新館が建設された。このため、その場所に位置していた平屋の寄宿舎はとりこわされた。寄宿舎は昭和31年、現在地に女子専門学校旧校舎を移転改築し、短大白楊寮・高校白百合寮として建てられていたので、不要の建物になっていた。(昭和30年代初期には、遠方からの学生が多く、短大において約4分の1が寮生活を送っていた。)新館の完成によって、同一建物に混在していた短大・高校の教室の分離が可能になった。階下は高校の普通教室(商業科)と教員増によって、手狭になった本館職員室の分室として用いられることになった。又2・3階は短大の和・洋裁の工作室2教室、実習準備室(仮縫室をふくむ)美術工作実習室、合併教室にあてられた。短大生活科ビルと新館の短大各教室との間に、連絡用渡り廊下が作られた。教育内容の異なる短大と高校の教室の分離が強く望まれていたが、新館完成によってかなりの程度にその念願は達成された。また50名を越す学生数の講義は講堂でしかおこなえなかったが、その不便さも解消できることになった。

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昭和34年の9月、東海地方をおそった伊勢湾台風は三河地方にも大きな爪跡を残し、多くの教職員・学生・生徒の家庭が被災、交通機関が完全に麻痺したために1週間の休校をしなければならなかった。学園校舎も木造部がはなはだしい損傷を受け、特に講堂は使用不能になってしまった。それまで学園における数多くの行事が講堂で催されていたが、このためにこの年の学園祭はやむなく中止しなければならなかった。講堂を失った学園は、以後、種々の行事を戸外または学外の会場に求めねばならないことになったので、講堂再建の要望は日増しに強くなっていった。当時、屋内外に運動場がなく、安城公園(現在の市役所所在地)、本館南の空地(現在の小公園)を借用して体育の授業などがおこなわれていたけれども、それらの場所が近い将来に使用困難になると予測されたので、本館の南、小公園に隣接する農地が買収されて、屋内運動場と集会・行事の会場を提供する体育館が建設されることになった。

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昭和36年3月、約8ヵ月の建設工事が終了し、陽春うららかな4月21日に竣工の式典がおこなわれた。

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体育館の完成記念行事として、ローマ・オリンピックで金メダルを獲得した体操の小野喬選手らの公開演技、日本体育大学と本学との交換バスケット・ボール試合が22日に行われ、翌23日には、生徒会記念行事として校内球技大会が催され、デラックスな体育館の幕明きにふさわしい行事の数々で飾られた。完成した体育館は、総工費、1億1,000万円、3,300平方米の延面積をもち、1階には小体育館、クラブ室、ロッカー・ルーム、シャワー・ルーム、保健室などの諸施設が、体育館の中心部ともいえる2階には、バスケット・コート3面分のスペースをもったメインフロアーがあり、バスケット・ボール、バレー・ボール、バドミントン競技用の設備をはじめ、体操競技用の諸器具も揃えられた。2・3階には1室ずつの体育準備室が、そしてコートを囲むように観覧席も設けられた。それまで運動場、体育館を持たなかった学園の体育授業は、本館屋上(リズムダンス)や安城公園の競技場で行わねばならず、長雨の時には10日も体育の授業ができなかったこともあった。また室内競技であるバスケット・ボール、バレー・ボール、卓球、体操などのクラブは他校の体育館へ借用に出かけたり、教室や土の上で練習をしなければならなかったことなどを考え併せると、この体育館は学園にとって必要欠くべからざる教育環境条件であった。このように、当時としては東海地方で唯一の大規模でデラックスな体育館であった。体育館の新設にあたって、台風によって半壊し、使用不能になった講堂の再建計画を学園は別にもっていたので、当時、流行のように建設されていた講堂兼用の体育館ではなく、体育専用タイプのものが考えられたし、将来他で建てられる体育館が時代の要請により、立派になってゆく事が予想されたので、将来においても、見劣りしないよう留意され、最新で理想的だと思われる諸設備がおこなわれた。また建築上特筆されるのは、体育館全体が渋いコンクリート生地で覆われるなかに、赤レンガによるアクセントがつけられて、落着いた色合いをもった近代的センスに溢れた建造物になったこと、自動車時代の到来を予測して1階に、かなり広いピロティ風の駐車場が設けられたことであった。

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昭和36年ごろより、戦後のベビー・ブームの影響が高等学校にも波及してきた。増加の速度が現実の問題として予測を上まわったので、学園も深刻な教室不足に悩まされはじめ、かねてから計画をもっていた本館右翼の増築工事に急いで取り掛からねばならなかった。昭和37年10月に、高校普通教室12、視聴覚教室をふくむ鉄筋4階建の増築校舎が完成した。それまで第1、第2に分割されていた職員室はまとめられ、昭和32年以来、木造校舎内旧短大職員室におられた家政系の先生方も加わって、大世帯の職員室が1階に生まれ、面談室、職員会議室もあらたに設けられた。4階には機械室が併設された視聴覚教室が新設され、教育の一方法として重要視されるようになった視聴覚教育に、学園が積極性を示す第一歩になった。またこの頃、学園の教育は情操教育に重点をおきはじめていたが、それまで一つしかなかった音楽教室不足の解消にも役立った。

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安城小堤校地における、校舎近代化は学園の創立50周年と期を同じくして、第1期の計画が終了した。昭和30年から7年間、校舎3棟・体育館など、あわせて建設費約2億円、延7,000平方米におよぶ建物が竣工し、安城学園の外観は昭和20年代の面影をわずかに残すほどまでに変貌した。本館建築当時、本館以南は見渡すかぎり田畑が拡がっていて、建物といえば、はるかかなたに市立南中学校の本造校舎が見える位いのものであったし、安城の市内には近代的な建造物は二、三を数えるに止った。昭和30年代後半には、三河地域にも都市化の波が急速に押し寄せ、私立、公立を問わず、多くの教育施設の近代化が行なわれるようになったけれども、経済的困難が数多く存在した昭和20年代後半に、教育内容だけでなく、教育の環境の充実に、英断をもって実行に踏み出された寺部だい園長の卓抜した識見は、過去40数年にわたり、時代を常に先取りしてこられた、永年の学園経営の経験からにじみ出たものであった。また、このような急速な学園の発展にあって、かなりの負担が学園関係者にひとしくかかった。そして、これがたとえ過渡的なものとはいえ、堪え難く、重くのしかかってきたけれども、だい先生を中心に、教職員、学生、生徒、それに同窓生が一丸となって、安城学園の明日を夢見て困難な事業を推進した。当時、事務局長をしておられた、故寺部二三子先生は、学園が背負った多額の負債を処理しなければならない立場におかれたけれども、寺部家魂で幾多の困難をはねかえし、園長先生の夢の実現に日夜尽力されたのであった。

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