第7節 学校生活

※しおりを追加すると、このページがしおりページに保存されます

昭和7年に本校に就任した松平すゞ先生は、本校就任以前に周辺の高等女学校の先生を歴任してきた。その経験にもとづいて松平先生は「とにかく日本中探しても、この学校ほど裁縫の技術のよく出来る学校は他にはないと思いました。卒業生は皆裁縫が上手でした。その頃は高等女学校を卒業しても裁縫塾に二、三年通わなければお嫁に行けない時代でしたから、職業学校の卒業生はお嫁に行って姑さんに喜ばれました」と語っている。
職業学校の裁縫技術は、その発足の当初から自他共に許す優秀さを誇っていた。専門学校ももちろんその伝統を受け継ぎ、更に発展させていたのである。昭和5年専門学校第1回卒業生の橋本咲さんは、在学中に岡崎で催された早縫競技会に出場して、断然他を圧して優勝したと語っている。
恒例の展覧会は毎年2月旧正月の頃、卒業製作品の展示を中心として開かれ、安城町の祭礼以上の賑わいを示した。展示された和服作品の訪問着、比翼、三つ重ね、晴れ着や、洋服作品のドレス、コート、スーツ、ウェデイングドレスなど、見る人の眼をみはらせるものばかりであった。(昭和9年から18年まで職業学校嘱託として和裁を教えた築山のぶ先生談)。
昭和10年代の頃は、女子の上級学校への進学率は極めて低く、尋常小学校卒で進学する者と高等小学校を終えて進学する者とを含めても、全体の1割程度が女学校へ入学したにすぎない。昭和10年に安城の第一尋常高等小学校から、職業学校の本科家政部3年に編入学した大橋ミツ(旧姓神谷)さんは、「1割そこそこの女学校進学者のなかでも、はっきりした目的意識をもっていて、しかも成績の優秀な人が職業学校を選ぶのが普通でした。おそらくその頃の女学校では、まだ洋裁は殆どやられていなかったと思います。私たちは本格的に洋裁を習いました」と語っている。

画像クリック/タップで拡大

生徒の自治組織として自治会があり、在校生、卒業生を含めた組織を校友会といっていたが、昭和15年頃には、自治会を校友会と呼ぶようになった。昭和15年3月に発行された校友会誌『つみ草』をみると、校友会は職業学校、専門学校合同で組織され、総務部、学芸部、体育部の3部に分れて、それぞれ活発に活動していたことがうかがわれる。その年、校友会で畑5反歩を借りうけて甘藷作りを行い、114円69銭の収益をあげている。また、校友会主催で合宿水泳訓練や河口湖でのキャンプ生活などを希望者を募って実施している。バレーと珠算については、年2回春秋の校内大会を行った。バレー部は校内の選手をよりすぐって結成され、対外試合にも優秀な戦績を収めていた。昭和15年全三河学童大会で、西尾高女を一蹴して本校が優勝した。(『つみ草』昭和15年版)。

修養会の精神は、大正末期から、本校の生徒指導のうえに定着していた。昭和10年頃には、修養団本部で発行していた『白ゆり』というパンフレットを用いて、歌を歌ったり、詩を唱和したりした。
昭和12年職業学校本科家政部を卒業した、大橋ミツ(旧姓神谷)さん、松野久子(旧姓江坂)さんらの語るところによれば、昭和10年から12年にかけて本校に在職した町島貴久先生(松本市在住日本刺繍普及会会長)は、いまでも『白ゆり』なる小冊子を所蔵している。この小冊子には表紙に白百合のデザインをあしらい、『白百合の賦』と題して「せせらぎ清き 渓川の 水の流れに影澄みて 塵をも止めぬ 白ゆりの 岸辺に笑めり 星のごと」という歌を最初に掲げている。この『白百合』にちなんで、本校内の修養会の組織を「白百合向上会」と呼んだものと思われる。

画像クリック/タップで拡大

修養団の精神をもっとも忠実に実践したのが寮生たちであった。そのため清純な白百合のイメージを背景にして、現在の附属高校の寮も白百合寮と命名されたのであろう。
昭和12年7月の盧溝橋事件、12月の南京攻略以後、にわかに拡大された大陸戦線の進展によって、昭和13年4月には国家総動員法が公布されている。そのような社会情勢のなかで、修養団は、従来の「流汗鍛練」「同胞相愛」に加えて「献身報国」を団是の前面にすえるようになった。
昭和17年職業学校本科師範部を卒業した坂下知子(旧姓平野)さん所蔵の『修養鏡』(写真)は坂下さんが職業学校に入学した昭和14年当時の世相を反映して巻頭に「愛国行進曲」を掲げている。
安城女子専門学校、安城女子職業学校は、独自に『修養鏡』を編集して、戦時色の強まりつつあった時代の女子精神作興をはかったものと考えられる。
定期的に東京の修養団本部から講師が来て講演が行なわれ、時には全校生が夜ローソクの火を囲んで語り、歌い、踊り興ずる霊火の集いを催した。さきにあげた大橋さん、松野さん、柵木さんなどは異口同音に「白百合向上会」がもたらした人間形成へのはかり知れない影響を強調している。
職業学校の生徒はセーラー服を制服として着用していたが、(昭和の初期制定以来)冬服は紺サージを用い衿、袖に3本の白いラインが入り、夏は白のセーラー服に3本の青線が衿と袖に入っていた。盛夏には長袖を半袖に直して着用することも認められていた。戦時下で衣料事情も日増しに窮屈になりつつあったが、制服改良の目的で生徒からスタイル画を公募し、学級でまとめて提出した記憶があると永野晴枝さん(職業学校昭和16年師範部卒)は語っている。
専門学校生徒の制服はテーラースーツに白ブラウスを着用し、夏には上衣をとり白ブラウス、スカートを着用していた。大東亜戦争の熾烈化とともにやがてスヵートの着用は認められず活動的なモンペイ着用にかわった。

目次
Copyright© 2023 学校法人安城学園. All Rights Reserved.