第11節 通学範囲と交通機関

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当時の安城町の町長岡田菊次郎は「町の発展には、交通の便をはかることが第一だ」との考えを持っており、道路整備に力を入れていた。大正9年までに町道100路線余が完成し、大正15年には、それが県道に編入されることになった。これによって約100キロメートルの県道が安城の町々に四通八達し17の県道が周辺の市町村を網の目のように結びつけた。大正10年前後には、安城駅より西尾町の間、大浜・岡崎間、桜井・安城間にそれぞれ乗合バスが開通した。(『安城市史』)。
また、大正15年には、碧海電鉄が今村を起点として米津まで開通し、昭和3年8月には西尾まで全長15キロメートルが開通した。(吉地昌一著『岡田菊次郎伝』昭和28年刊)
安城女子職業学校は、地元でよりも、それ以外の所でとみに名声を博していたので、寄宿生が多かった。また、寄宿生に対する指導に極めて見るべきものが多かったこともあって、その連鎖反応で、県外からの入学者が増加の一途をたどっていた。それにつれて、地元からの入学者も増えつつあった。高等女学校や、師範学校に対しては、「飛んだことした学校へ入れて、一人娘を棒にふる」(山崎延吉全集第3巻『農村教育論』大正3年6月刊)といった反省が出はじめ、地域社会に密着した教育を求める傾向を示すようになって、本校の師範科や本科が見直されたのである。岡田カツさんの話によれば、西尾の高第小学校で1級上の一番の女子は、西尾高女を見むきもせずに、すすんで安城女子職業学校を選んで進学した。これら、旧碧海や旧幡豆、旧額田など各地からの入学者の増加は、交通機関の発達に伴なって通学が可能になったことをも反映していたのである。国鉄沿線からの通学者も、東は幸田・蒲郡から、西は刈谷・大府からとその数を増して来た。碧海電鉄の西尾への開通につれて旧幡豆郡からの通学者も増えつつあった。
交通機関を利用する通学者に加えて、特徴的だったのは、自転車通学者の多いことであった。碧海地方は、平担な台地状をなしていることから、自転車は極めて便利な交通手段として普及しつゝあった。大正15年から昭和2年にかけて、高等師範科1部に在籍した福井県出身の朝日わくり(旧姓酒井)さんは、自転車通学者の多いのにびっくりし、福井では女子が自転車に乗ることなど思いもよらないことであったとその驚きを語っている。自転車通学生の分布は、高岡、野田、富士松、矢作、和泉、西端、鴛鴨、上郷、六ツ美、桜井、高浜など旧碧海の殆ど全域に及んでいた。この自転車の普及は大正12年頃から急スピードでなされたらしく、大正11年に高岡から本科へ入学した加藤なみ(旧姓前田)さん、佐野ユクエ(旧姓石川)さんらは、はじめの1ヶ年寄宿舎生活をして、2年目からそろって自転車で通学した。その頃、高岡から自転車での通学生が同級生でもう一人おり、自転車がまだ珍らしかったので、3人そろって、意気揚々とペダルを踏んで通学したと語っている。道路網の整備につれて、この頃から自転車が爆発的に普及したものと思われる。

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