第2節 新しい教育づくりの胎動(昭和46~49年度)

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昭和46年からの4年間は、新しい教育課程が編成実施され、創作活動の準備が完了し、創意に溢れた授業研究がつぎつぎと実践され、教育工学の考え方が吸収されるなど、本校の教学の歴史に一つのエポックを画する時期であった。
昭和44年7月に一部改訂されて45年度入学生から実施に移された教育課程は、その後も部分的な手直しが加えられ、よりよいものを求めての研究が続けられた。こうして、昭和48年度入学生から、普通科と商業科に「創作活動」を実施するという、私学の独自制を一層明確に打ち出した新しい教育課程に移行した。この改訂の要点は次の通りである。

普通科 昭和45年度入学生が3年生になった時点(47年度実施)から、B(進学)コースを再び一本化して、B2(文系進学)を廃止した。これは、進学者の大部分が上位校の学部と短大各学科を希望するという実態に合わせて、上位校との一貫教育をより充実させるための改善である。
昭和48年度入学生からは、B(進学)コースでは理科について1年で物理Ⅰ、2年で化学Ⅰと生物Ⅰ、3年で化学Ⅱと生物Ⅱの5科目を履修させることにした。自然科学の分野の急速な進展に対応して、サイエンスに強い女性を育てるための改訂である。また、上位校(家政系大学短大)進学者の要求に応えて、「家庭」に増加単位を与えて各学年2単位ずつ均等に配することにした。その上で、進路希望によって「古典Ⅱ」、「音楽Ⅱ」、「英語A」のいずれかを選択できるように配慮した。A(就職)、Bコースともに3年で特別教育活動として「創作活動」2単位を必修とした。「創作活動」が実際に開始されたのは昭和50年4月以降のことである。

家庭科 昭和46年度の入学生から、2・3年にB(進学)コースを設定した。家庭に関する専門教科を一通り習得した上で、さらに大学・短大に進学したいという者が増加してきたことに対応しての改善である。このコースでは、特設科目として「家庭理科」2単位を配し、科学する心を養い進学に必要な国語・数学・英語の単位数を増やし、その分だけ家庭科の専門科目の単位数を削減した。なお、「家庭理科」は昭和50年度から「家庭理論」と改称され単位数も3に改められた。

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商業科 商業に関する専門科目は少単位科目が多く、その影響で商業科の生徒は落ち着きがなくガツガツしている者が多いのではないかとの批判があった。そこで、昭和48年の入学生から、「創作活動」の導入とも関連して大幅に教育課程を改訂した。従来1単位科目であったカナタイプ、英文タイプを整理統合して特設科目「事務機械」3単位とし、3年の計算実務1単位を、1年から1単位回わして2単位とした。こうして1単位科目を全廃し、和文タイプは1年と3年で2単位ずつ分割履修していたものを、3年にまとめて4単位とすることに改めた。これらの商業専門科目の改善と並行して、社会科にも新しい試みがなされた。2年で「日本史」と「世界史」を統合した科目として「歴史」が新設され、3年で、「倫理社会」と「政治経済」を統合し、それに「経済」の内容を加味した新しい科目として、仮称「社会一般」を実施することにした。

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昭和47年7月制定の教育課程で、普通科と商業科の3年に「創作活動」が特設されることになったが、これには長い模索と準備研究のプロセスがあった。

昭和46年度の初め、学校長は学習指導部に対して重大な問題提起を行なった。「これからの時代を生きて行くうえで必要な、自主性と応用力を伸ばし、潜在能力を開発するために、普通の授業の形態にとらわれない学習方法を研究せよ」というのである。
その当時、クラス単位の一斉授業に対する見直しの気運が全国的にも高まっていた。本校でも、昭和43年に林昌弘校長補佐(当時)が玉川学園を視察して、特にその「自由研究」の実践に強い関心を抱いた。45年には河村和男校長補佐(当時)、46年には岩井由紀教諭と相ついで玉川学園を視察し、「自由研究」の実施方法、指導体制について研究を深めた。
学習指導部でも、昭和44年度の後半に、一斉授業に対する反省と潜在能力開発のための授業のあり方を模索して「ゼミナール(または自主研究)の開設について」という構想を提起した。この構想の中には、後に「創作活動」として位置づけられたものの大略がすでに盛り込まれていたのである。
昭和46年度には、長谷博教諭が日本史の授業に自由研究の時間を採り入れて、創作活動への先導的な試みを行なった。この年度、普通科3年のB(文系進学)コースでは、「日本史」が6単位であった。そのうちの1単位を自由研究に当てたのである。テーマは日本史に関係のある事項の中から生徒に自由に選ばせ、毎週1時間図書館などを利用して研究させた。最後にまとめのレポートを提出させ、研究への取組みの態度、レポートの内容、創造性などを総合的に評価するというものであった。
このような時期に、学校長より「創作活動」の提言が行なわれ、その実施に向けての準備が精力的に進められることになったのである。
昭和47年度には学習指導部内に「創作活動準備係」が置かれることになり、教科主任の中から4名が選ばれた。全教員に対するアンケートの実施、意見の集約などが行なわれ、研究分野、研究テーマ、担当者などの大綱が決定された。昭和49年度には、専門委員として「創作活動係」3名が置かれ、具体的な遂行に当った。6月、7月と2回にわたって生徒の部門別、テーマ別の希望調査を実施し、9月には部門登録が行なわれた。こうして50年度の開講に向けての準備が着々と進められたのである。

教育課程の改訂を進める一方、毎日の授業で一人ひとりの生徒の潜在能力をいかにして開発するか、生徒の学力差が拡大し遅進者が増えてきた実態にどう対応するかという観点から授業研究への関心も高まった。昭和45年度に初めて授業研究専門委員会が設置され、翌46年度から本格的な活動が開始された。この専門委員会では授業の基礎的研究、よりよい授業の実践とそこに生ずるさまざまな問題の解決に当った。全教員が公開授業を行ない、お互に授業を質的に高め合う努力がなされた。
昭和47年度には、教員一人ひとりが授業研究のテーマを掲げ、それぞれ共通のテーマごとにグループを作って研究を深め、よりよい実践を追究して行くことになった。
このような授業研究への熱意の高まりが、その当時教育界で脚光を浴びていた教育工学への関心に結びついて行くことになったのである。

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昭和46年度より、河村和男校長補佐(当時)は、東京で開かれていた沼野一男東邦大教授(当時)の主催する学習科学研究会に毎月参加し、化学学習プログラムを多数開発して授業に活用した。また、フローチャートによる学習指導案の作成を学んで、それを本校にも適用した。黒岩稔雄教諭も、県私学教育工学研究会に参加して、ハードウェア・ソフトウェアについての研修を進め、校内での実践を推進した。

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昭和49年度には校内研修の主要テーマに教育工学が取り上げられ、「フローチャートの書き方」、「TP作成について」、「VTRについて」などについて全教職員が積極的に研修した。
特に、普通科2年の化学では昭和46年度からプログラム学習が実践され、生徒の学習進度に応じた教材を与えることの有効性を実証し、48年度には、「極性」、「溶解」、「化学反応速度」などで新しいプログラムが開発された。

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これに伴なって教育機器の導入とその活用も盛んになった。
昭和40年代を通じて日本経済は高度成長を遂げ、国民所得は増大したが、それは家庭と青少年にさまざまな影響をもたらした。両親の共働きによる鍵っ子の発生、父権の低落と家庭におけるしつけの欠如などである。社会的にもヤング向けの週刊誌が相ついで発行され、低俗なマスコミ攻勢が性の商品化を煽った。高校への進学率も上昇して、学習意欲の乏しい生徒が増加した。車の普及も青少年の非行の増大に拍車をかけた。昭和48年には、深刻な石油ショックに見舞われたが、非行の低年齢化、女子非行急増の傾向を止めることはできなかった。
このような状況は、多かれ少かれ、本校の生徒指導にも反映された。昭和48年度には補導体制を強化し、問題生徒の指導と、校則を守らせる指導が補導の主要な任務とされ、学年主任もそれに協力する体制が確立した。
生徒の校外における生活指導が補導の重点課題となり、昭和49年度には校外補導の担当者が置かれた。また、昭和46年度から、全教員が朝の登校時に一斉に街頭に立って生徒を指導する一斉登校が、月1回ずつ行なわれるようになった。
昭和49年4月に、生徒心得細則、アルバイト細則が公布された。校則を守らせる指導をより一層おし進めるために、全文を生徒手帳に記載すると同時に、別刷りを全生徒の保護者にも配布して、その周知徹底をはかった。
昭和47年4月、かねてからの生徒の要望をいれて、制服の一部が改正された。衿の部分に白い衿カバーを取りつけ、ボタンで自由に取りはずしができるようにし、それまでの隠しボタンを表に出し、ポケットをなくしたものである。これによって衿元が一層すっきりし女子高校生らしい清潔感の溢れた制服になった。
昭和48年度の1学期に、本校はアメリカの女子高校生2名を留学として迎え入れた。ロータリークラブの交換留学生ベッキーとローナである。
昭和45年度から実施された統一テーマを掲げての学園祭は、46年度「示せ 若者の力を 可能性を!」、47年度「燃やせ若者の力を!」、48年度「問いなおそうあなたの青春 試めしてみよう みんなの力を!」、49年度「求めよ 心の泉を!」と相ついで統一テーマを掲げて行なわれた。年ごとに盛大になって行ったが、その一方でマンネリ化してしまったのではないかという反省も表われた。

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学園祭を終えて
学園祭実行委員長 杉山美紀
(アスナロ16号より)

私たちの青春の力を燃やす、年に一度の行事「学園祭」…。本年も、この学園祭は学園生の一致協力のもとに無事終了しました。
本年度は“求めよ! 心の泉を!”を統一テーマとして、皆さんの総力を結集し、忘れかけていた「心」を呼び戻し、自分自身はいかにあるべきかを問い直そうとしました。
また、本年度は、サブテーマを掲げることによって、私たちの主張のマンネリ化を脱することができ、学園祭に新風を吹き込む成果を挙げることができたのではないかと思います。
しかし、反省会で一番の話題となったのは、「もう一度学園祭とは何か。その意義について根本的に考え直してみよう」と言うことでした。単に行事であるからやるというのではなく、何のために、どのような形式で行なうのか。また、学園祭という場に、私たちの青春は果して何を求めようとするのか。それを一人一人が明確にすることによって、また新たな、マンネリ化を脱した学園祭にしていくことができるのだと思います。

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本年も含め、毎年言い継がれた反省をみても、変った点はほんの僅かしかなく、そのほとんどが例年の通り実施されているだけなのです。つまりは、マンネリ化といわれるゆえんです。
これは、学園祭の根本的意義が忘れられているからだと思います。これを是正するためには、一人一人が学園祭の意義を再認識することから始めなければなりません。
私たちは、新しい形式のものを作りましたが、多くの失敗もしました。失敗は失敗として素直に認め、二度と同じ失敗を繰り返さないように努めることが大切だと思います。
何事も「始め」があれば「終り」があり、その次はまた「始め」である。世の中はこの繰り返しであると、私はある人に教えてもらいました。本年度の学園祭は終りましたが、もう来年度の学園祭がスタートしております。今迄の諸先輩が残された実績を参考にして、さらに充実したものを作りあげていってくださることを期待しております。
バスケットボールクラブは昭和49年度まで、全日本高校総体に出場を続け、連続出場記録を12年に伸ばした。ソフトボールクラブは昭和49年度に5年ぶりに国体出場の夢を果たし、有望選手の入学もあって将来への大きな期待を抱かせた。陸上クラブは昭和45年県大会で杉崎真佐子が800米第1位、同じく西森国江が走幅跳第5位となり、48年県大会で今井優子が砲丸投第5位に入賞し、東海大会でも活躍した。演劇クラブは昭和46年度「投げられないエース」で、中部日本大会に出場して大いに気を吐いた。

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昭和29年に文芸クラブの手で創刊され、毎年1冊ずつ発行され続けてきた「ポプラ」が、残念ながら、47年度の第25号をもって廃刊のやむなきに至った。その理由は印刷費の高騰によって生徒会予算では到底まかない切れない状況になったことが最たるものであるが、クラブ員が減少し、その創作力も低下してきた事実も見逃すことはできない。昭和49年、50年、51年の3年間は、生徒会の機関誌「あすなろ」に間借りの状態で、わずかにその命脈を保っていたが、52年度には、遂にその名さえも消えてしまった。
昭和49年度の入学生は765名に達し、2年664名、3年619名の合計は遂に2,048名を数え初めて2,000の大台を突破した。
昭和33年に改築された白百合寮は、翌34年の伊勢湾台風によって大きな被害を蒙り、その後老朽化が甚しかった。さらに、東西加茂、新城・南北設楽、渥美など遠隔地からの入学者が毎年30名前後もある状況でより広い寮の必要性が叫ばれていた。昭和46年の12月、鉄筋コンクリート3階建、床総面積1,912平方米の新しい白百合寮が完成した。暖房が完備されており、一般寮生の他に、運動クラブ(ソフトボール、バスケットボール)の合宿所としての施設設備を持っている。

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昭和47年11月22日には、学校法人安城学園の60周年記念式典が行なわれた。附属高校も各種の記念行事を行ない、60年の歴史と伝統を踏まえて、さらに新たな出発をしようと全教職員が決意を新たにした。

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