寺部清毅先生、理事長に就任
学園創設者の寺部だい先生が逝去される1か月前、昭和41年4月に、だい先生の念願されていた家政学部を持つ4年制大学が、愛知女子大学として認可され、また同時並行して準備してきた幼児教育科を持つ同大短期大学部、さらに同大附属幼稚園も認可されたのであった。
かくて安城学園は、大学を項点としたピラミット型の教育体系を持つ総合学園として、新たな学園の歴史の一歩を画した。
創設者を失った悲しみのなかで、また同時に総合学園の大道を切り拓く使命を持って、寺部家の次男である寺部清毅先生が昭和42年10月、理事長に推挙され、就任した。先生は創立者の一人の寺部三蔵先生が死去された昭和21年10月から24年まで理事長に就任していたので、2度目の理事長就任である。
この時点で、安城学園は次のような体制であった。
愛知女子大学(41年4月認可) 家政学部
なお、愛知女子大学は43年4月、名称変更し、安城学園大学となった。
愛知女子大学短期大学部(41年4月認可) 幼児教育科
安城学園女子短期大学(25年3月認可) 被服科 生活科 家政科
安城学園女子短期大学附属高等学校(23年3月認可) 普通科 家庭科 商業科 生活科
岡崎城西高等学校(37年3月認可) 普通科
安城学園女子短期大学附属中学校(23年3月認可)
愛知女子大学附属幼稚園(41年4月認可)
安城学園女子短期大学附属幼稚園(25年3月認可)
学園財政はこの頃、危機的な状況であった。負債先は、大小併せて二百数十所に達し、資産約9億円に対して、負債総額は約8.5億円であった。理事長は3か年の資金計画と資金繰り表を作成し、銀行に日参し、やっとつなぎ資金を借り入れることができ、虎口を脱した。校舎はもちろん、理事長宅まで抵当物件として担保に供された。
寺部清毅新理事長にとっては、学園財政が窮迫している最中の、苦難からのスタートであった。
5か年計画のもとに総合学園の道を歩む
学園はつぶれるのでは、との噂の立つなか、建学の精神を具現する総合学園の路線を貫く決意は微塵も揺らぐことはない。新理事長は就任時に、学園再建5か年計画を立案した。試練期での、将来を見据えた5か年計画である。
その第一次5か年計画の第1の柱は、岡崎市舳越町に安城学園大学校舎の新校舎を建設する(44年3月竣工)、および安城市小堤町の短期大学校舎(43年8月竣工)と附属高等学校校舎(43年1月竣工)を増築する、安城学園大学校地の岡崎市舳越町に短期大学校舎(44年3月増築竣工)を建築する、というものであった。
これは、学園のイメージアップを図る起死回生策であった。
第二の柱は、それまで万事が官公立の後追いであった教育課程を、学園の独自性のあるものに再編することであった。教育課程の整理統合と特設科目の設定である。
寺部清毅理事長は、就任とともに学園再建5か年計画を、次々と実施に移していった。
昭和47年11月には、学校法人安城学園の60周年記念式典が行われ、各種の記念行事が行われたが、この年はまた、第二次5か年計画が始動した年でもあった。
第二次5か年計画の第1の柱は、安城学園女子短期大学付属高等学校および岡崎城西高等学校(男子校)の社会的地位を高めることであった。特に、附属高校に重点が置かれた。
第二の柱は、大学、短大の整備充実であった。41年の大学の新設が学園に破局的な様相をもたらしたとの印象が教職員に濃いので、手控えていた事業である。
具体的には次のような課題である。
1 長年懸案となっていた安城学園女子短期大学の岡崎校地への移転(53年4月新築移転)。
2 安城学園大学(旧愛知女子大学)短期大学部の定員増に備えた移転(53年4月移転)。
3 安城学園大学の追加校地の取得(西沖校地。52年9月)。
4 学舎の建設(現在の南棟。52年3月竣工)。
5 カリキュラムの再検討。
これらの一連の事業は、53年頃には、一応の基盤整備を終了した。以降は、安城学園は寺部清毅理事長に指導されながら、総合的学園としての発展拡充へと更に入っていったのである。