第5節 短期大学の充実

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短期大学の設置に伴い宮沢文吾農学博士を学長にお願いしながら充分な待遇もできず、しかも学長が遠方に住んでいたために発足にあたって山積する問題も仲々相談もできず苦慮していた。そんな時寺部だい学園長が20年程前に世話になった東大名誉教授二木謙三医学博士に依頼することを思いついたのである。寺部だい先生と二木謙三先生との出合いは『おもいでぐさ』につぎのように記されている。

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「私が先生を知ることが出来ましたのは、遠く昭和6年に遡ります。当時、私は重病にかゝつて、県下の名医数人の診断を受けましたが病勢は進むばかりで臥床を余儀なくされていました。その時修養団の竹内浦次先生の勧めで東京大学病院から、二木博士の来診を仰ぐことになりました。診察の結果、病気はない、栄養不良のために全身の要所々々が衰弱しているのだ。今日から直ちに栄養を施せば、薬の必要はない。というまことに驚くようなご説明でありました。そこで私は、日常摂取している栄養食について申し上げますと、先生は、“そのようなものは丁度枯れかかった松の木に、色々と立派な肥料を施しているのと同じで、到底助かるものではない。そんなことよりも、水を恵んでやれば生きのびるかもしれない。この病人にも、こうした自然の養分を与えて見よ。即ち1、玄米食、2、果物、3、野菜類、4、海草、5、特に人参、大根を下ろして生で食べる。これを実行さえすれば快方に向うだろう。”と説明して下さいました。直ちにその通りを試みましたところ、それから次第に恢復いたし、今日に至っているのであります。」
このようないきさつから20余年経った昭和25年、寺部だい先生は東京大学医学部の研究会の会場にまで出向いて先生に短大の学長就任を懇願したところ、「昔の玄米食の友とあれば」と即座に快諾の返事をもらい昭和26年4月ここに2代目の学長が生れたわけである。二木学長が明治42年に受けた医学博士の学位論文は「自然免疫学理の研究」であり、それが赤痢病原の研究に発展し伝染病学の権威として後年昭和30年文化勲章を受賞されたのである。

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このようにして短期大学の基礎もかたまり学生の数も増加し、発足の翌年昭和26年入学生が18名であったのが翌27年には31名となり、更に28・29年の入学生は46名、70名と増加の一途を辿ったのである。これと期を一つにして昭和27年安城町も人口増加と共に県下13番目の市として、誕生した。その時の安城市の人口は3万8,000人であった。このような外的環境とあいまって短大の内容は充実し、教員の資格、栄養士の免許証が取得できることになった。中学校教員2級普通免許状(家庭・保健)と高等学校仮免許状の認可は昭和29年、生活科への栄養士免許証もまた同年認可され、ここに短期大学としての安定した基礎ができあがったのであり、将来への発展の足がためとなったのである。

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