昭和18年、戦争に伴う学校令の改正によって師範学校は専門学校程度となり、同時に従来の中学校、高等女学校、実業学校は、すべて中等学校と変り、本校は中等学校令実業学校規程により修業年限を4か年(国民学校高等科修了は2か年)と […]
中学校の下級生から小学校5・6年に至るまで、学徒動員の名のもとに一斉に軍需工場にかり出されたのは、大東亜戦争がかなり苛烈になった昭和19年秋頃からのことであった。大平洋戦争に突入した昭和16・17年頃は、農繁期に応召家族 […]
大平洋戦争も末期に近づいた昭和19年12月7日午後1時36分、西三河地域は激震に襲われた。震源地は志摩半島さきの海底で、これを東南海地震といい、余震は2週間のあいだに206回を記録したほど大規模なものであった。この日学校 […]
昭和20年(1945)8月15日を境にすべての情況が一変し、勤労動員で軍需工場へ派遣されていた生徒は本校へ引き上げたが、直ちに夏休みに入り9月にかけて長い休暇となった。10月に始業したものの疎開者が都市へ帰省したため生徒 […]
創立以来、本校発展のために努力されてきた寺部三蔵先生は、当時理事長並に専門学校長であったが惜しくも病気のため、昭和21年(1946)10月26日現職のままで急逝された。 学校葬は、後継者である寺部清毅先生が葬儀委員長とな […]
文部省では昭和20年10月22日と、同月30日の2度にわたる連合国最高司令官が教育界の刷新を目的とする2つの覚書に基いて、その実施に必要な法令を公布した。それは教職員適格審査令であり、これにより全国約40万の教育関係者は […]
当時の制度では、官公立の専門学校は卒業と同時に中等教員の免許状が交付されたが、私立の専門学校では国家試験を合格しなければ中免は与えられなかった。つまり卒業しても中等教員にはなれないという矛盾があったのである。教員の免許状 […]
戦争中から終戦の年に生徒数は急増し学校は膨張してきたことと、敗戦から立ち直った若人の情熱が一挙に文芸復興の様相をあらわし、その成果の発表会・講演会・文化行事などが盛んとなってきたため、施設完備の必要性から講堂の建設をする […]
まなびやを巣立ち行く数多くの同窓生に若い日日をともに過ごしたその想いを大切にとの願いをこめ「我な忘れそ」にちなんで勿忘草会と名づけ昭和21年会長加藤くりゑさん(旧姓久保)を中心として役員によって会報第1号が創刊されガリ版 […]
昭和21年に入ってから、故寺部だい、現理事長寺部清毅両先生は、教育内容充実のため意欲的に権威ある教授を招いて、当時の物資欠乏時代に精神的な豊かさを学生に与え、活気に満ちた学校生活が始まった。教授陣の充実は昭和22年から2 […]
敗戦に伴う学制改革によって本学園の歴史も大きな区切りをつけなければならない。昭和22年3月教育基本法、学校教育法が施行され、同年6・3制の新しい小、中学校が1せいに発足した。愛知県下ではこの年4月公立286校、私立33校 […]
大正6年より30年間余続けられて来た安城女子職業学校の名称が廃され、安城学園女子高等学校となったのは昭和23年4月であるが、その直後の6月財団法人安城女子専門学校を財団法人安城学園と名称変更した。安城女子職業学校、安城女 […]
本学園においては昭和のはじめから10年余附設幼稚園を経営し多年に亘って幼児の保育に大きな貢献をしてきたが、昭和11年廃止されていた。しかし戦後、幼児保育の重要性が強調され各方面からの要望もあり昭和24年4月安城学園附属保 […]
学校教育法第69条の2によって大学の他に短期大学という2か年の大学を設立することが出来るようになり、安城女子専門学校を大学にするか、短期大学にするかが、まず最初の重大な問題点となった。それはまた安城女子専門学校の廃止にも […]
短期大学の設置に伴い宮沢文吾農学博士を学長にお願いしながら充分な待遇もできず、しかも学長が遠方に住んでいたために発足にあたって山積する問題も仲々相談もできず苦慮していた。そんな時寺部だい学園長が20年程前に世話になった東 […]
新らしい学制のもと、苦しみのうちに出発した女子高等学校、女子短期大学がようやくその日暮しの貧しさの中から明るさを見出して古い制服に何かちょっと飾りがほしくなる程度の心のゆとりが出はじめたのが昭和25・26年頃であった。そ […]
23年4月に設置された安城学園女子中学校は、各市町村の中学校が終戦後の混乱からやや持直しはじめてきたため、入学生は25年7名、26年8名と減少し、ここで27年度より募集中止せざるを得なくなった。一時中止して、また時期を見 […]