第2節 甲種中等程度実業学校となる

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校名変更によって、意気ごみも新たに出発すると間もなく、大正7年4月、安城町は町内の各小学校に、実業補習学校を併設した。これは、国全体の実業教育の高まりの中で、愛知県が「公立実業学校補助規定」をつくり、これに安城町が応じたものである。
この学校は、尋常小学校6年卒業を入学資格とし、修業年限3年の本科と夜間部とがあり、その科目も我が安城職業学校とよく似た、修身、国語、算術、農業、家事、裁縫であった。その方針も、学校で学んだことが直ちに応用出来ること、勤労の精神を身につけさせる、などとした。その為、「女学校を卆業すると気ぐらいが高くなって農家へ嫁にいきたがらない」という当時の風潮を反映して、多くの入学者が集まった。本校は、この影響をまともに受けた。この時の事情を、だい先生は『おもいでぐさ』にこう記しておられる。

「安城町は、私の学校そのままの学科課程で、補習女学校を新設し、町の在住者に対しては無月謝というのです。本校生徒の七割までが町内高等小学校の卒業者であったのでたまりません。もうその四月には町内からの入学生は絶えてしまいました。」

本校にとって最初の大きな危機であった。
また、第一次大戦によるインフレーションは物価の暴騰を来し、遂に米騒動の悲惨事を引き起してしまった。人件費や生活費はどんどん上昇していく。どうしたらよいか。もしここで月謝を上げれば、先に、実業補習学校の設立により生徒を奪われたのに、これに輪をかけることになりかねなかった。従って、出来ることなら、この方法は避けたかった。しかし、事態は厳しく、これを切り抜けるには、大幅な月謝値上げしか方法はなかったようである。従来の、50銭が2円となった。(科によって差はあったが。)

ここで何らかの新しい手をうつことが是非とも必要であった。それは、この危機をチャンスとして、更に高きをのぞむことであった。中等学校への昇格、これであった。
大正7年11月5日、実業学校令による、甲種中等程度実業学校への昇格のための認可申請書が提出された。
その設置基準を充足させる為、早速、同月、第4校舎(一部2階建40坪)を増築、続いて12月には、2階建48坪(講堂兼用の教室)を増築、更に、土地100坪を購入、校地を拡張したのである。そして、教員組織も整えて認可を待った。
認可があったのは、翌大正8年2月21日であった。そして、4月1日を期して、中等学校として再発足することになった。記録はつぎのようになっている。

大正8年2月21日 中等程度(甲種)に新設認可
大正8年4月 1日 私立安城女子職業学校長認可 校長寺部だい
同右 新設学校開校、旧学校廃校
組織変更、甲種実業学校として開校

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この頃より、特に師範科への入学生が急増し、学校経営も軌道に乗ってきた。
今までは、ほとんどの生徒は、碧海郡内から徒歩で通学していた。中に、東加茂郡、額田郡から入学した者が数名いたが、校長宅2階に寄宿すれば、こと足りる程度であった。しかし、この頃から徐々に、通学不可能な地域、すなわち、従来の東加茂、額田などに加えて、岡崎、西加茂、知多の西三河各地から、また、宝飯、南設楽、北設楽など東三河地方や、更には、8名、愛知の各郡など尾張からも入学生があった。その原因は、徹底した指導により、優れた裁縫技術を身につけた卒業生の評判が、安城女子職業学校の名を高めた為であった。また、検定試験に合格し、裁縫科教員として各校に赴任した卒業生の実績や、その口から伝えられる本校の教育方針が、少しずつ滲透していったからでもあった。
遠方からの入学生が増えてきたので、学校に近い、堅実な家を借り受け、そこに寄宿させることになった。遠方からの入学生は、年と共にその数を増していったのである。

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