夏山合宿
本校の独自な行事の、3年生全員参加の北ア登山の夏山合宿は、営々として、続けられている。
現代の若者は職業選択の際、「きつい、きたない、きけん」な職業は極力避け、楽で、清潔で、危険性の少ない仕事につきたがるという。こうした3Kをいやがる意識は、遊びやスポーツにも見受けられる。彼等はレジャー文化のなかで、適度な運動で汗を流し、快適なドライブを楽しむ。ここ数年来の傾向として、若者の登山離れがあるのは、こんなところに原因があると思われる。
生徒たちには、辛く、厳しい夏山合宿ではあるが、自然の中で汗まみれになり、息せき切って体力の限界に挑むことの貴重な体験。不自由なキャンプ生活で味わう友情や協力の大切さ。現代の若者が失いつつある自然への畏敬と本物の感動。これらを与えるために、本校の夏山合宿はある。雲海の向こうの常念岳から昇る朝日を見つめる生徒たちの顔。3,180メートルの槍ケ岳の項上に立った時の彼等の喜び。山から帰った時の自信にあふれた若者の姿。それらを毎年見るたびに、夏山合宿の労苦は報われる。昭和62年(1987)のある日、朝日新聞の「ひととき」欄には、生徒の父兄の次のような一文が掲載された。
「5泊6日の夏山合宿から、高3の長男が帰ってきた。疲れた顔で、大きな荷物を背中から降ろしながら、『まあ、お母さんじゃあ、登れんだろうな』。私が『お母さんも行きたいけど』と言っていたからだ。石か木の葉のお土産を頼んだのを覚えていて、穂高の石を袋から出しながら、上高地―穂高岳―蝶ケ岳などの話をポツリポツリ。天候に恵まれず、項上まであと一歩の3,000米地点で引き返し、とても悔しかったこと。雪道の恐さ。自分勝手な行動をとると皆に迷惑をかける。途中休憩すれば置いていかれる。何時間も歩く山は忍耐のみ…。聞いているうちに、ABCとコースを分け、身体の弱い子にも山の体験をこの時期にさせてやりたいので、全員参加が目標です、と言われた先生の言葉が思い出された。高校3年生、受験勉強真っただ中の夏山合宿で、登山に挑戦できたのは、私立高校ならでは、かもしれない。公立に入れなかったことより、この高校、このクラス、この先生方に出会えた息子は幸せ者だと思う。」(筆者は安城市の神谷昭子さん)
平成元年度、7月は夏山合宿20回を迎えたが、それを記念して、夏山合宿の足取り、実施までの概要を記録した『槍・奥穂・蝶・常念への道―夏山合宿20年のあゆみ』を発行した。その中には次のような祝辞も掲載されている。
「父、重太郎の後を継いで、穂高岳山荘の経営を始めて、20年と少しになる。城西高校の集団登山が今年で20回を迎えたと聞いて、私の山小屋生活が20年を超えたと、感慨深いものがある。この間、4,000人以上の生徒が私の山荘を利用したことになる。この20年は、私にとって、また、この山荘にとっても、激動の時代だった。私は無我夢中で、この山小屋を私にとっての理想の山小屋にするよう、また、ひとりでも多くの登山者に喜んでもらえるように、頑張ってきた。毎年変化する山荘を、城西高校の先生方は、いちばん詳しく知っているに違いないと思っている(中略)。
私は常々、自然は最良の教育の場であると考えている。特に、山は変化に富んでいて、あらゆる教材を提供してくれる。都会では得られない数々の感動を与えてくれる。自分の足で3,000米の山項に立てたこと、四方数百キロに及ぶ大展望。夜空を埋めつくす星。荘厳な日の出。岩にしがみつくようにはえている可憐な高山植物。人を恐れない動物。このような大自然こそ、都会で失われた人間性を取り戻す最大の教育の場ではないであろうか。そう考えている教育者は大勢いるに違いないが、いざ実行しようとすると、いろいろな問題が生じてくる。一番大きな問題は、事故でも生じた時の責任問題である。引率の先生、学校も、責任を問われる事態が生ずる。これを恐れて、たいがいの学校が尻込みしてしまっているのが現状である。この点、城西高校は、完璧とまでいえる安全体制を敷いて、敢然と実行に移している点は、見事としかいいようがない。大勢のベテランの先生方を中心に、下見を兼ねた訓練山行。徹底した生徒の健康管理。無線機を使った連絡網。ちょっと厳しすぎると思える規律。先生を含め、700人近い人間を一糸乱れぬよう統率しているのは、見事である。
私の山荘では、夏山シーズンの初めに、100人以上の人数で、毎年来てくれる城西高校の学校登山は、大きな行事になっている。毎年、懐かしい顔馴染みの先生方に逢えるのを楽しみにしている。これからも事故がないよう、万全の体制を敷いて、一人でも多くの生徒に、この北アルプスのすばらしい自然を、体験させていただきたいと念願する次第である。」(穂高岳山荘 今田英雄氏)
夏山合宿は、平成3年7月には、22回目を迎えた。
オリエンテーション合宿
本校の新入生のオリエンテーションは、従来は本校の宿泊施設を使い、行ってきたが、平成元年度以降は、その方法を変えた。
新入生のガイダンスの要点は、入学当初の新鮮な気分と緊張感の抜け切らないうちに、指導を終わることにある。その考えに立ち、新入生のオリエンテーションを、ひるがの高原のレインボータワーホテルを借り切って、実施することにしたのである。
新入生を2グループに分け、1泊2日で行うこの合宿の利点は、指導者が雑用に煩わされず、指導に専念できること、および、生徒が落ち着いた環境で、神経を集中することが出来、理解が深まることである。日程の面でも、従来のガイダンスは4月下旬まで、延々と行っていたが、新方式により、指導は3日間で終了することになった。
加賀白山を望む高原でもあり、生徒たちには、「山の空気がおいしかった」「自然の美しさをはじめて知った」と、好評である。教員も寝食を共にするので、より早く生徒の資質を把握できる。
野外活動
本校が各学年において実施する行事である遠足は、当初のバスに乗り、近隣の観光地を見て帰る、という形から、昭和46年には、「野外活動」に改めたのであった。
その後、57年度からは、きたるべき3年生の夏山合宿の準備のための野外活動、との位置づけで、1年生は、鳳来寺山を門谷方面から石段を登り、山頂へ、そこから湯谷まで東海自然歩道を歩き、2年生は、三河高原で、3年生は闇苅渓谷で、それぞれ飯盒炊さん、という方式になった。この方式はその後、1年生については、生徒数の増加に伴い、1年生全員を鳳来寺山に登らせるのは困難になったので、近くの県民の森の、低山登りを加えて、分割した。2・3年生はそのままで、現在に至っている。
2年生の飯盒炊さんは、かならずご飯を炊くこと、副食は最低2品はつくること、という条件で、実施している。しかし、薪を割って、火をたくということは未経験の生徒たちばかりである。まず鉈で手を切ることがないようにという事前指導から入り、自動点火に慣れた生徒に火をたくことを教える、という苦労をしなければならない。飯盒でご飯を炊く時の水の量、炊き上げるコツ、火から下ろすタイミングなども、教員が手をとって指図しなければならないのが実情である。
苦労して出来上がったものは、焦げたご飯にシャビシャビのカレーライス、すきやき汁のような料理ではあるが、自分たちが協力してつくったご馳走であり、野外での食事であるため、生徒たちは皆、おいしそうに食べる。
さすがに、3年生になると、経験を積んでいるだけに、すべてに手際がよく、料理も上手になる。焼肉、カレー、すきやきといった簡単なものから、てんぷら、うなどんなどのメニューも出てくる
便利さが追求される今日であり、生徒もそれに流されている日常生活であるが、野外に出て、なにかをやる、生徒の活動場面をつくるという「野外活動」は、本校の教育の集大成と言える3年生の夏山合宿へもつながるものとして、今後も残していかなければならない学校行事である。
強歩大会
創立以来の伝統行事である本校の全生徒を挙げての強歩大会は、平成3年度には、30回を迎えた。
この行事は、毎年11月21日の学園創立記念日の前日に実施されているもので、コース等は次のように変遷してきている。
交通事情が悪化してきたことから、昭和44年度以降は、出発点を学校から県営岡崎グラウンドに移し、岡崎市北部の山間を歩いた。
59年度までのコースは、県営グラウンド―真伝町―稲熊―東公園―洞―高隆寺―やすらぎ公園―田口―岩中―大井町―県営グラウンドの、約30キロの距離である。
しかし、60年度には、更なる交通事情の悪化と、全校2,000人近い生徒が歩くには無理があるので、コースは、岩津天満宮北東の天台宗の名刹である真福寺へのコースに移された。県営グラウンドを出発し、東阿知和町の山間部を抜け、真福寺へ(昼食)、恵田町から滝山寺を抜けてくるコースである。
翌61年度からは、県営グラウンドに集合させるための交通手段や、急な天候悪化への対応を考慮して、学校から真福寺へというコースに変更し、現在に至っている。
平成2年までは、全コース約27キロであったが、反省事項として、強歩としては距離不足ではないかということで、平成3年度から約32キロのコースとした。
すなわち、現在のコースは、交通量の多いところは極力避け、日名橋を渡り、矢作川堤防上を通り、新青木橋下、西阿知和町、東名高速道路側道から真福寺(昼食)、岡崎花園地区内陸工業団地を抜け、恵田小学校、下駒立、再度真福寺下を通り、往路と同じ道を学校まで、という約32キロである。この歩行距離は、創立当時の約50キロには及ばないものの、歩くことに慣れていない今の生徒たちは、靴擦れや、足のまめに泣きながらも、歩き通している。
修学旅行
本校の第2学年が行う修学旅行は、例年、天候的に安定し、他校との接触が少ない時期である11月下旬から12月上旬にかけて、実施される。
旅行先は、1回生から3回生までは、中国・九州地方であった。
41年度から3年間は、「健児の旅」として、夏休みに、吉野、大台ケ原、富士山周辺、京都、奈良を巡った。
44年度は、山陽、4国方面であった。
45年度から2年間は、東北方面へと変わった。
そして47年度からは、南九州となり、定着して、現在に至っている。
さんふらわあ船中2泊、ホテル3泊の九州の旅は、指宿、霧島、阿蘇に全員が泊まり、見学は3コースに分かれる。
スキー合宿
スキー合宿も、本校創立時から実施されている、伝統行事である。1年生の希望者を対象とし、体育科を中心として行う。
合宿場所は、白馬牧寄高原、濁河温泉スキー場と変遷したが、48年度からは栂池高原で実施するようになり、今日に至っている。日程は、第2学期の終業式の翌日から4泊5日である。
暖冬で雪不足の年もあり、57年度は、実施を3月中旬に延期した。61年度は、日程を早めて帰校した。平成3年度は、中止した。
マラソン大会
マラソン大会も、本校創立以来の伝統行事である。
このマラソン大会のコースは、従来は、県営グラウンド―岩中―県営グラウンドの約16キロのコースであった。
しかし、昭和50年代中頃からの生徒数の増加、交通、道路状況の変化により、このコースでは実施が困難になり、59年度の第23回大会から、学校を起点として、矢作川の流れに沿って走ることになった。
矢作川沿いに位置する本校は、幸いなことに、第3グラウンドとも言うべき矢作川の河川敷がある。そこからスタートして、堤防の中段を下流に向かって、矢作橋、渡橋の下を通り、美矢井橋の下流300メートル付近を折り返すという、15~17キロのコースをとり、現在に至っている。折り返し点のチェック方法は、手の甲にマジックをつけたり、体操服のゼッケンに検印を押したりと、年々工夫している。毎年、2、3人の途中落伍者は出るものの、監視に当たっている先生方に励まされ、ほぼ全員が完走している。
毎年、全学年が走るのであるが、平成3年度には、矢作橋の工事の関係上、マラソン大会の実施そのものが危ぶまれた。学校長をはじめとして、体育科の尽力により、工事関係者の了承をとりつけ、1・2年生だけなら可能ということで実施された。
音楽鑑賞会
昭和46年から始めた音楽鑑賞会も、岡崎市民会館で、全校生徒が参加し、続けてきた。
しかし、56年度からは、生徒数の増加に伴い、市民会館に入りきらないので、3年生の卒業した3月に、1・2年生のみの参加により、実施するようになった。
生徒会を中心とする学校行事
学校行事のなかで生徒会が中心となるものは、6月中旬の球技大会、10月上旬の体育祭、11月上旬の文化祭、2月下旬の予餞会、3月中旬の弁論大会である。生徒会執行部、常任委員会、生徒議会、クラスでの討議を経て、立案・計画・運営される。生徒会執行部の意欲的な活動により、各種行事は年々、盛んになっている。
生徒会では、57年度からは、「生徒会・顧問研修会」と銘打って、5月の連休中に1泊2日の校内合宿を行い、年間行事について検討を重ねるようになった。年間テーマを決め、それぞれの行事にサブテーマをつけ、個々の行事を盛り上げようと、熱心な討議が行われる。
球技大会は、例年、6月中旬、第1学期の中間考査後に実施する。ただ、平成2年度と3年度は、校舎改築のために中止となった。
競技種目は、59年度までは、第1学年はバレーボール、第2学年はハンドボール、第3学年はバスケットボールであった。しかし入学間もない時期に技術的に難しい球技では、試合にならない、という考えで、60年度には、第1学年はハンドボール、第2学年はバレーボールと、変更された。この他に、全学年のソフトボールのクラス対抗戦がある。早い段階で負けたクラスは、矢作川の河川敷で、クラス単位で活動する。
梅雨時での実施でありながら、順延になったことはあまりない。各学年とも、クラス対抗のため、男子校らしくエキサイトする場面もあり、梅雨の晴れ間に、気持ちのよい汗を流している。
体育祭は、伝統的に、学年を縦割り色別にし、そのなかで更に学年ごとのクラス対抗を行うという形式である。クラスはもちろん、学年を超えたつながりを目指しての体育祭である。競技を盛り上げる材料も増えてきている。
クラスの名誉をかけた真剣そのものの陸上競技種目。笑いを誘うレクリエーション種目。男子校ならではの機敏で整然とした、しかも迫力あるマス・ゲーム。壮観な騎馬戦。楽しくもあり、興奮する一日である。
毎年10月上旬に行ってきた体育祭は、平成2年度からは、実施時期を6月上旬に変更した。第2学期に大きな行事が集中していること、大学の推薦入試が早まったことなどがその原因である。
平成元年度から平成3年度にかけては、校舎の増改築工事のため、体育祭は、県営岡崎総合グラウンドで実施した。そのためか、やや「体育大会」の感があった。
文化祭も、平成元年度からの校舎増改築工事の影響を受けた。生徒会は、工事による制約のなかでも、出来る限りのことをやろうという意気込みで、精一杯の活動をした。南棟が取り壊された平成元年度の文化祭のテーマは、「南棟最後の秋、君は何を思うか」であった。
体育館を残して新校舎が出来上がった平成2年度の文化祭のテーマは、「伝統、そしてここから始まる新たな一歩」であった。従来、文化祭の期日は、11月上旬の第1週の土、日であったが、この年度からは、体育祭と同じく、学校行事の見直しが唱えられ、10月上旬の実施となった。
改築工事が完了した平成3年度の文化祭のテーマは、「君は今、新たな伝統の中に」であった。今ままでの文化祭を見直そう、そして、良き伝統を残しつつ、新しい城西高校の文化祭を創り出そう、という意味を込めたものである。
文化祭は、土曜日は、校内生徒だけを対象とし、日曜日は一般公開である。他の高校が平日に校内だけの文化祭という風潮のなかで、本校が日曜日にも開催するのは、保護者を中心に、一般の方々に見てもらおうという意図である。平成3年度の文化祭の来校者数は、502人であった。
プログラムは、伝統的に、第1日目は、全校生徒が参加して、開会式、講演。クラブ発表として、合唱部、吹奏楽部、そして文化クラブの展示。第2日目は自由登校とし、展示見学の他に、クラブ発表として、応援部、弁論部。音楽祭として吹奏楽部、合唱部、ギター部の定期演奏会。そして映画の上映である。
これらの文化クラブの展示・発表の他に、教室やグラウンドのテントでは、うどん、団子、カレー、喫茶、5平餅などの模擬店が、クラス、クラブ単位で出され、文化祭を盛り上げる。この他、毎年、献血も実施している。
生徒会は、準備、後片づけなどに、クラス参加を呼びかけ、全校生徒の手による文化祭にしようと努力している。
この他、文化祭行事の一環として、生徒に「一流のもの」に触れさせ、深い感動と感銘を与えようという意図で、49年度から始まった観劇も、伝統として、3年ごとに、岡崎市民会館で続けられている。
卒業していく3年生へのはなむけのための予餞会も、毎年、岡崎市民会館で行っている。ただ、1年生は入りきらないため、2年生だけで、3年生のはなむけをしている。
第1部は、運動部、文化部のクラブ功労賞、生徒会功労賞の授与。第2部は、アトラクションである。
平成3年度の予餞会は、スライドで、思い出深い3年間の学校生活を映し、その間に生徒会執行部、有志による寸劇を入れ、場内を盛り上げた。さらに合唱部、吹奏楽部の発表の後、全員でヒット曲「愛は勝つ」を大合唱した。
夏山合宿と同じく、他校にはみられない行事に、弁論大会がある。
始まりのいきさつについて『城西20年の歩み』は、「昭和43年、第1回の校内弁論大会が行われた。周辺の学校では次々と弁論部がつぶれ、弁論がすたれかけていた。ラジオ、テレビの普及からか、おしゃべりや、ちょっとした発言は上手になったが、人前で堂々とまとまった意見を述べることは、かえって下手になった感がある。そこで、校内弁論大会を行って、弁論についての関心を喚起するとともに、聞く態度をも身につけさせたい」、と記述している。
情報、娯楽機器の発達により、自分の世界に浸りがちな現在の生徒は、独りよがりな考えを持ちがちである。こういった現代においてこそ、偏りのない自分の意見を論理的に、胸を張って主張できるようにしなければならない。男子であるからには、なおさらのことである。
校内弁論大会は3月中旬に実施する。1・2年生全員に、冬休みの課題として原稿を書かせ、各クラス1名の代表を選び、原稿審査と弁論発表審査を行う。演題は、社会問題、人の心について、クラブ活動等学校生活、世界の動き、など様々である。