第4節 晴れて開校式を挙げる

※しおりを追加すると、このページがしおりページに保存されます

大正3年(1914)は、第一次世界大戦の始まった年である。1か月後の8月、日本もドイツに対し宣戦布告し、中国の山東省、ドイツ領南洋諸島を占領して、戦争にまきこまれていった。しかしながら、直接の戦場とは遠く離れた日本は、この大戦中にアジア市場に進出し、ヨーロッパへも軍需品を供給して、日本経済は飛躍的な発展を逐げてゆく。
この同じ大正3年、安城町では碧海郡役所が知立町より移転し、この頃から数年の間に4つの銀行が開店して、碧海郡の中心としての地歩が固められていった。
こうした背景のもとに、大正4年3月、安城裁縫女学校は、開校以来丸3年が経過した。この間、生徒数50名をという開校前の目標を突破し、大正3年度末には、生徒数96名(『碧海郡誌』による)に達していた。学校経営の面においては、第2校舎、第3校舎という相次ぐ増築のため、非常な苦しい立場にいるとはいえ、裁縫科教員の検定試験にも合格者を出し、苦しいながらもやればできる、という将来への希望と自信が、三蔵先生、だい先生の胸にはっきりと芽生えて来たものと思われる。この自信が、これまで学校経営と教授と、毎日の生活に追われてできなかった、開校式を挙げる、という思いにつながったものであろう。
三蔵先生の記録によると、“大正4年3月7日、地方名誉職、有力家、小学校長等130名を招いて開校式挙行”とある。当時の卒業生が「碧海郡長さんがおみえになった」と言っているので、郡長井深基氏、安城町長神谷高治氏などの地方有力者が参列されて、盛大に開校式が挙げられた。
翌8日から10日の3日間、開校式を記念する裁縫科展覧会も学校で開かれ、一般にも公開されて、多数の見学者を迎えた。このような展覧会は、記録によると、大正3年4月に、父兄懇話会が開かれた折にも生徒の作品が陳列されており、この後も、度々行なわれるようになるのである。全生徒が一人1品以上出品するため、この開催のためには、早くから準備が進められ、生徒達にとっても楽しみで、熱心に作品の作製にかゝったようである。出品物は大別して2通りあり、一つは絹などを材料とする上等な着物、はおりの類、もう一つは、本校の特色であり、だい先生が最も力を入れた廃物利用品であった。日頃使い残した端切れ、持ち寄った古布などを利用したもので、中でも、小物入れ・財布・手さげ袋などの袋物は、即売されて、一般の方々に非常に好評であったようである。
このような作品展覧会は、大正期を通じて更に内容も充実し、年1回というように定期化して、学校のPRの為にも、生徒達の実力向上の為にも、大いに役立ってゆくのである。

目次
Copyright© 2023 学校法人安城学園. All Rights Reserved.