第4節 誇り得る伝統行事のかずかず

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創立以来、運動会、体育大会、体力検定として行ってきた体育行事は、昭和43年には体育祭と名称を改め、内容もお祭り的要素を加えて華やかさを増した。学年たて割りの色別(赤・白・青)対抗競技に借り物競走、パン喰い競走などのリクリエーション種目を盛りこみ、昼休みには学級単位の仮装行列がグランドを練り歩く。また、午後の競技に先だち、色別応援団のエールの交換。櫓に幟がはためき、太鼓をならし、声をからしての応援などは、お祭り気分をいやが上にも盛りあげたのである。

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この最初の体育祭の企画、運営にあたったのは、1年生を中心とする後期生徒会役員と、生徒会顧問の教師たちであった。“みんなでお祭りをやろう。それも溌刺とした高校生らしいお祭りを”という意気ごみが執行部内にあふれ連日夜の7時・8時迄の討議が続いた。
体育祭は、成功裡に終ったのであるが、この方式は仮装行列を除いて現在までも踏襲されている。

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体育祭を成功させた1年生を中心とする生徒会執行部と顧問は、本校にとって初めての「文化祭」に取り組んだ。この年始めて文化祭にテーマが登場した。いわく「真の自主性の確立を目指して」である。11月16・17日の2日間にわたって、講演「ヨーロッパを旅して」、討論会、英語劇、レコードコンサート、英語弁論、アジア民族舞踊(本校第1回卒業生、榊原静胤氏)、また友情出演として学園附属高校の吹奏楽部の演奏等々、盛り沢山の催し物が用意された。

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また、この年から他校生、保護者、一般社会人の参観者を招待し、本校の文化面を見ていただくことが始まった。文化部の展示会場に説明係を置き、解説のパンフレットを用意し、生徒会は受付を設け、校門にはアーチを造りあげた。

文化クラブの展示発表は量質共に充実しており、参観者の評判もよく、本校の評価を高からしめるものがあった。これもクラブ顧問の指導があってこそ可能になったものである。

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昭和44年以降は模擬店、クラス展示発表が加わり、祭典ムードは上昇した。
文化祭行事の一環として観劇が始まったのは昭和49年度からである。第1回は創作劇場の「赤い月」2回・3回は、前進座の「柳橋物語」「怒る富士」であった。「一流のもの」に触れた生徒達は感動と感銘を受けた。
昭和50年度からは、有名人を招いての講演が始まった。野球解説者の荒川博氏、山岳カメラマンの神憲明氏、CBCアナウンサーの中島公司氏などである。

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大阪で万国博覧会の開かれた昭和45年、3年生に万博見学をさせる計画がもち上った。当初、野外活動の目的地として考えたのであるが、3月下旬から始まっている万博に、すでに行った者もいる。そこで臨時の特別教育活動として、「万博見学」に「上高地キャンプ」「工場見学」「登校自習」を加えて希望者を募ることとし、実施は1学期の期末考査終了後とした。そもそも「上高地キャンプ」の発想は、3年生の学年主任であった竪山教諭が静岡大山岳部で活躍した山のベテランであり北アルプスを熟知していたこと。さらに、職員の中にも山の経験者が数名いたことから生まれたものである。

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6月27日から29日にかけての下検分を経て7月13日から3泊4日の夏山登山を実施した。
北アルプスの自然は、参加した生徒達に衝撃的な感動を与えた。この感動を教員は率直にうけとめたのである。
学校教育に於て、「やらねばならぬこと」はどこの学校でもやっているが、「やった方がよいこと」は言うは易く行うは難い。登山のように危険を伴う場合はなおさらである。しかし安全第一ばかりを考えていては本当の教育はできない、という学校長の見解にたって全教職員の協力のもとに、昭和46年からは名称も、「夏山合宿」と改め、学校特別行事として、3年生全員参加のもとに行われることになった。
昭和48年、開始以来4年目にして、「夏山合宿」は大きく飛躍する。夏山をひかえた職員会議において、登山の危険性、事故の場合の保障問題等、熱っぽい真剣な論議を経て学校行事としての決定をみたこと。同時にそれぞれの目標地に向かって行動を起こしている各パーティの動静をキャッチすべく徳沢に本部を設けたこと。経費の点からベースキャンプ方式を採用したこと、さらに、蝶ヶ岳、涸沢、常念岳のコースに奥穂高岳を加えた4コースが確立したことである。昭和53年度に槍ヶ岳コースが加わるまではこの4コースで実施してきた。
標高3,190米。奥穂は富士山、北岳に次ぐ日本で3番目の高さを誇る。涸沢ヒュッテから見上げるルートは雪に覆われた摺鉢状の壁であり、中央にザイテンの背骨が累々と続く。万全の準備のもとに、事故の絶無を祈りながら、無事奥穂の頂上に立つ。黒々とした尾根を見せる穂高連峰。糸のように眼下を流れる梓川。紺青の空の下で、生徒も教員も「よくぞここまで登った」の感慨が脳裏をよぎるのである。

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夏山合宿は本校教育の総決算である。入学以来、実践と体得につとめた建学の精神、すなわち「質実剛健・己に克つの実践、勇気と努力をもって困難にたち向かう」ことの強い心と体力が培われているか。登山を通じて人間関係のあり方を自然の中でいかに感じとることができたか等々を自覚体得させる機会でもある。すなわち本校における鍛練の総仕上げとも言える。
昭和46年4月下旬の運営委員会で、それまで実施していた遠足を「野外活動」に改める案が学校長から出された。遠足の適当な目的地を捜すことの困難さと、バスに乗り近隣の観光地を漫然と見て回り、弁当を食べて帰ることの教育効果への反省があり、とくかく現地で何かをやるということ。生徒の活動場面があることを条件に、その年の5月から野外活動が始まった。
1年生は鳳来寺山の東海自然遊歩道を歩き2年生は明治村見学、3年生は闇苅渓谷でのディキャンプであった。突然の変更でもあり内容的に貧弱なきらいはあったが、2回目からは「野活」の主旨を十分くみとったものも出てきた。1年生のオリエンテーリングがそれである。また、森林公園での球技大会、フィールドアスレチックなども行った。しかし、その後は、1年生は鳳来寺山の東海自然遊歩道、2・3年生は、きたるべき夏山合宿の準備として、三河高原、闇苅渓谷でのディキャンプに定着している。

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開校5年目(昭和41年)に始まった創立記念式および行事は、昭和47年まで続いた。その翌年からは、前日に学校長からその意義について訓辞があり、当日9月26日は休日とし、家庭で祝意を表すこととなった。
創立記念日の行事をあげてみると次のようになる。
昭和41年は上原甚松氏による記念講演「城西創設の頃」。昭和43年は愛大教授久曽神昇氏の講演「日本語について」。昭和44年は新校長鈴木修先生を迎え創立7周年と銘うち盛大に実施。まず丸太の校門を岡崎城の石垣に見たてた石組みのものに造りかえ、開門式を行う。また式辞の中で長髪許可宣言がなされた。

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昭和45年は「校歌の発表」である。それまで歌われていた「城西健児の歌」(伊村喜多男詞・西野隆三曲)を国語科教諭高橋洋司、鋤柄哲朗の2氏が補作し、運営委員会で手を加え、故松井辰三郎安城学園大教授が原曲の一部を手直ししたものを、校歌として制定した。
昭和46年は逍遥歌「君よ、共に歌おう」(高橋洋司詩・曲)が作られた。昭和47年は緑の少ない校地に植樹をし、これで創立記念の行事は終るのである。
強歩大会、マラソン大会、スキー合宿も、共に本校創立以来の伝統行事である。
強歩大会については、第1回から昭和56年度第20回に至るまで、才栗町の白髭神社折り返しと変らないが、交通事情の悪化と共に、昭和44年以降は、出発点を学校から県営岡崎グランドに移した。学校出発のコースは全長45粁と、かなりの強行軍であり、脚の痛さと疲労に泣いたものである。
マラソン大会第1回は、明大寺仮校舎出発、矢作川堤防を走り美矢井橋を渡り中島、福岡を経て明大寺という20粁のコース。第2回から6回までは、本校出発、若林または大林折り返しの18粁から20粁を走った。昭和44年の第7回以降は、平針街道の交通量増加のため、出発点を県営岡崎グランドに移し岩中折り返しとなり、現在に至る。

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スキー合宿は昭和37年12月25日、5泊4日(車中2泊)の日程で白馬牧寄高原スキー場で行った。以後昭和40年まで場所は同じであったが、昭和43年から47年までは濁河温泉スキー場に変り、昭和48年に栂池高原スキー場となり、以後現在に至る。いずれも1年生を中心にした希望制で参加者を募るが、毎回150名前後の熱心な参加者が集まる。

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ともすれば流行に支配されがちな生徒達に“ほんもの”のみが持つ音楽の美しさを解らせようという学校長の発案があって音楽鑑賞会が始まった。これは昭和46年から始まったのであるが、クラシック歌曲、管楽器、弦楽器、邦楽器の演奏を毎年聴いた。経費の点から出演者も無名の新人が多かったが、いずれも熱心な演奏であり、

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生徒達も“生”演奏のすばらしさに陶酔したものである。
第1回の卒業証書授与式は、河村敏治を代表とする183名。来賓約40名。君が代斉唱、証書授与、来賓祝辞、記念品贈呈、在校生送辞、卒業の歌(螢の光・仰げば尊し)城西健児の歌と形どおりの卒業式であった。
この第1回のパターンは、昭和43年度第5回まで引き継がれるが、第6回、昭和44年度の卒業式からは、純然たる「卒業証書授与式」にするための改革がなされた。それは、前日の予行演習の前に表彰式を設け、表彰関係を全てすますこと。氏名読みあげ、卒業生その場に起立、総代うけとりという従来の形式を改め、卒業生ひとりひとりが登壇し、担任の手から証書をうけとり、校長にあいさつして降壇という「堂々めぐり」方式にしたこと。また卒業の歌「螢の光」「仰げば尊し」を廃止した。

さらに、第9回では、在校生の送辞を「祝いのことば」として、前日の壮行式にまわし、答辞は、式の中で卒業にあたっての決意を、簡明にかつ力強くのべる「誓いのことば」に改めた。
昭和48年度、第10回では、学校への卒業記念品贈呈を壮行式と同時に行う表彰式にまわした。余分な夾雑を一切とり払った、卒業生中心の「卒業証書授与式」が完成したのである。
この改革の底に流れる学校長の考え方は、次のようなものであった。
「生徒達は、3年間の在学中に各自の能力に応じて努力し、自己の持つ個性を伸ばしてきた。特に進展著しい者については、その成果を表彰してやらねばならぬ。しかし、それを卒業式で行う必要はない。能力差、学力差を教師が認識していなければならないのは、卒業式の前日までである。卒業式においては、生徒は全員同じスタートラインに立たせるべきである。彼等はそこから、さらに新しい目標に向かって歩み出すのである。」
昭和45年は、大学紛争のあおりをうけて高校紛争がピークにさしかかりつつあり、近隣の二、三の高校でも騒然たる卒業式が行われたという。卒業式改革の提案者であった学校長を始め、教職員の胸中には「生徒を紛争に巻きこむな」の強い決意と努力があった。その具体的なあらわれとしての改革であったともいえる。
短時間(約60分)ではあるが、緊張感あふれる荘厳な卒業式は伝統となり、来賓諸氏はもとより、世間の評価も高い。
卒業式の来賓も昭和51年度をさかいに年々増加し、56年度には、100名に達した。多くは中学校関係者であるが、他私学からの見学を兼ねた方々も見受けられる。これは、城西高校の地域社会における評価が定まってきた何よりの証左であるといえよう。

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