短期大学は現在、家政系、教育系、社会科学系の各領域にわたり5学科を擁している。
ファッション・オーガナイザーを 服飾科
食品公害に強い栄養士を 生活科
整理学に精通した情報化社会人を 家政科
幼児の可能性を引き出すパイオニアを 幼児教育科
暮らしの国際化に対応できる現代女性を 国際教養科
各科の内容は右に示したように、生活学の色彩が濃く、生活に根ざした実学的性格を持っている。短期大学は4年制大学と異なって、2年という短かい期間で、幅広い知識と実践的な技術を修得しなければならないというハンデキャップを負っていることも事実である。本学は前身である女子専門学校の誕生から数えると、実に55年に近い伝統を持っているけれども、各科が本学の歴史をただ受け継ぐだけでなく、時代性を十分に意識した教育内容を持ち続けねばならない。
短期大学被服科の服飾科への名称変更をはじめ、各科の教育内容の改善、幼児教育科の桜井(安城市)移転と定員増に続く、2つの短期大学の統合など、昭和47度から始まった既設学科の充実整備には、大学よりむしろ短期大学に関する計画が多く含まれていた。そして、昭和57年度からは、新たに社会科学系学科である国際教養科が増設され、校地も岡崎、安城、豊田の3市にわたり、愛知県でも有数の総合短期大学へと発展した。
短期大学創立以来の伝統ある被服科は、昭和50年4月より、その名称を服飾科へと変更した。従来、衣服の機能と美についての条件とは何かを考えることにこの科の教育の重点がおかれていたけれども、現代の衣生活全体に目を向け、よりファッショナブルな衣生活を演出する能力を養うことのできるよう教育内容が改善された。さらに、服飾科は昭和55年度より、洋裁・デザインの2コース制を導入してファッションとデザインの各分野においてエキスパートとしての実力の向上を目指すことになった。
その他の3科でも、時代に適合した生活学を目指して特色あるカリキュラムづくりが行なわれてきた。学科設立以来、四半世紀にわたって2,500名の栄養士を養成した生活科においては、単に調理技術を磨き、食品知識を集積するといった教育から、現代における種々な食生活の問題を通して、われわれの生活全体のあり方を総合的に考える内容を色濃く含んだ教育へと脱皮してきた。家政科においては、生活の近代化の過程で生じた家族制度をはじめとする現代生活の諸問題について、また、情報化時代における情報の収集、整理に精通した現代人の養成に重点がおかれるようになった。幼稚園や保育園などの集団保育の場で活躍する人材を養成している幼児教育科では、幼児教育、6領域を総合的に把握する教育が特色となった。創作人形劇の制作から上演まで取り組む幼児教育総合講座は、6領域総合の訓練の場になっている。
このように、短期大学各科の教育は、社会の各分野で、新しい考え方と技術をもって活躍できるエキスパート養成に向かって更に充実、発展を続けている。
短期大学の発展を目指して、昭和47年度から既設学科の整備・充実計画が着々と進行していった。この年、安城市の厚意によって、市立桜井家政髙等学校の跡地である安城市桜井町稲荷東の土地、2万5,000平方米を校地の一部として譲り受けた。寺部だい先生の誕生の地に校地が得られたのを機に、幼児教育科の移転が計画された。同53年4月、桜井学舎が完成すると同時に、幼児教育科は岡崎校地より桜井校地に居を移し、幼児の可能性を引き出すパイオニアの育成に一層力を注ぐことになった。
緑に恵まれた桜井学舎は中央広場を囲んで正面・3階建の中央棟と両翼の2棟からなりたっている。正門から中央棟へのアプローチは、落ち着いた色のレンガが用いられており、3階まで続く白いラセン階段でアクセントを付けられた明るい中央棟入口ホールは、瀟洒な南欧の建築を思わせるものがある。内部設備は幼児教育研究と、教育者養成の場に相応しい近代的内容を備えている。特に中央棟3階には20のピアノレッスン室とピアノ指導室4室があり、各室からの音の漏出や内部への騒音侵入防止に特に配慮が払われた設計がなされている。
一方、岡崎校地においても、大学発展の長期展望のなかで、教育環境の充実、整備が進められた。昭和51年、校地に隣接している岡崎市舳越町西沖4番の土地、5,660平方米が将来の大学拡充に備える目論みで購入された。更に、翌52年3月、中央棟の南側に鉄筋2階建の南棟が建てられた。この新しい校舎は、従来から新・増設の要望が高かった屋内体育室兼用の集会室、学生ホール、第2被服工作室、物理化学実験室、研究室などで構成され、大学の教育と研究条件はこれによって大きく改善された。この建物の1階、中央に設けられた学生ホールは2階まで吹抜きになっていて、学生達がゆっくり憩うことのできるよう配慮されたが、これは、同じ時期に、第一次の校地整備事業として行なわれた植樹とともに、岡崎学舎全体を、より潤いのある教育環境にしたいという大学の意向が反映された結果であった。
更に、昭和54年度には、正門の移転と資料ゼミナール棟の増築が行なわれた。
旧正門は、校地西側の市道からほぼ直角に折れた場所にあったが、近隣の家の車の路上駐車と重なって、スクールバスや大学関係者の車輌の通行に支障をきたすことが多かった。新正門は校地の北西端から長いモール状のアプローチをとって、管理棟正面に位置するように設けられた。アプローチ両側にはツツジ、サツキなどの植込みもあり、女子大学らしい落着いた前景となった。
資料・ゼミナール棟は、図書館書庫の蔵書スペースや教員専用閲覧室が手狭になってきたことと、家政学部欧米文化コースの語学演習充実のために建設された。延面積162平方米の小じんまりとした建物であるが、学術雑誌のバックナンバーを収蔵し、教員閲覧スペースも設けた図書館分室、タイプ、英会話の演習室2室からなっており、演習室のうち一方はラウンジ風にしつらえられ、教員と学生の談話室としても機能するよう考慮された。
昭和54年4月には、安城学園大学短期大学部幼児教育科の名称が、安城学園女子短期大学幼児教育科に変更された。同一の教育理念をもっているのに、形式上、安城学園には2つの短大が存在し、まぎらわしい状態であった。このため、短大の名称を安城学園女子短期大学に一本化できるように、両短大の統合申請が文部省へ提出された。その結果、安城学園女子短期大学は、従来の3科に幼児教育科を加えて、4科の学科構成をもつこととなったのである。翌55年、既に、施設・設備、教育組織の充実を果していた幼児教育科は、文部省の認可を受け、入学定員は50名から100名へと増加した。
桜井学舎開設(53年度)、短期大学の統合(54年度)、幼児教育科定員増(55年度)などによって、47年度から始められた既設学部・学科の充実整備計画は一段落をみた。
この計画の終期、53年に豊田市から短期大学設置についての要請がもちこまれていた。もともと豊田市からは、これより約10年前にも、当時の佐藤市長からも誘致の話があったのだが、校地として提示された場所が女子学生の通学には不向きであったことや、既設学科の基盤整備を最優先とする当時の理事会の方針もあって、中断されたままになっていた。整備計画の順調な発展によって、将来構想の展望と検討をすすめていた理事会において、内外条件に最も相応しい時期が到来したとの判断が行なわれ、この要請に応ずる決定がなされた。直ちに法人は、豊田市側と具体的な打合せに入るとともに、学内には準備委員会が設置された。トヨタ自動車の成長とともにめざましい発展をとげ、西三河第一の都市となった豊田市ではあったが、女子大、短大が1校もなく、市内に短大をという市民の要望も強く、短大誘地は市の重要施策の一つであった。したがって市としても、市議会内の学校誘致特別委員会において、短大誘致の助成条例の審議を始めるとともに、豊田市を挙げての体制で、本学の誘致が推進された。今回、市から提示された土地は、名鉄三河線の若林駅から南東徒歩3分、住宅地として開発されつつある高台にあり、女子短大の所在地としては申し分のない場所であった。しかも、この地区には県立高校の新設も決定しており、市も地元住民も、将米文教地区としての発展を望んでいた地域であった。市は、開発公社による土地買収手続の一切、予定校地周辺道路の整備、排水路の確保について保障し、法人もこれに委託した。土地取得につきものの紆余曲折を経ながら、用地買収は進捗したが、土地は当初予定されていた面積の3分の2しか取得できなかった。しかも第一種住居専用地域に指定されていたため、軒高制限等の規制によって、最高2階建ての建築物とせざるを得なかった。
一方、学内に設置された準備委員会では、新学科の性格、内容についてたび重なる検討をすすめていたが、その結果、これまでの短大の学科分野には全く見られなかった「国際教養科」の設置認可を申請することに決定した。これは、一つには現代社会の進む方向についての分析と認識に基づくものであり、いま一つはこれまでの学内における教育、研究活動からの内的必然性によるものであった。
前者は、国際的な動きがきわめて直接的かつ多面的にわれわれの生活に波及してきている、いわゆる「暮しの国際化」の中にあって、諸外国との協調の中で、国際社会における相互依存の必要性と国際的責務を認識し、自主的に思考し行動できる女性の育成が、今日的急務であると考えたことである。後者は、すでに家政学部において、国際的、比較文化的方法で家政学を見直そうとした欧米文化コースを発足させていたことと、生活文化研究所の東南アジア研究班が4回にわたる現地調査を含めた10年近い活動により、東南アジアの衣、食、住等の生活をはじめ、経済、文化の各面にわたる研究成果をつみ上げていたことである。
基本方針が決まると、準備委員会は直ちにカリキュラム原案等細部の作業にかかるとともに、文部省担当官との打合せに入った。当初は、従来存在しない学科ということで設置に消極的であった担当官も、数度にわたる説明でその必要性を認識するようになり、55年7月、「57年4月」に開設を予定した申請書を提出することができた。同年10月、11月大学設置、私立大学両審議会によるヒアリングを経て、12月に第一次審査を通過した。翌56年5月から学舎建築が始められ、6月には二次書類を提出、教員の個人審査、両審議会の現地審査を経て、57年1月正式に設置認可を受け、57年4月から学内外の期待のもとに発足した。
国際教養科は、このように、日本の大学・短大を通じ初めて設けられた科で、生活全般にわたる「国際化」の時代の要請に応えて、社会の種々な分野で国際的視野をもって働くことのできる女性の育成を目指している。
カリキュラムの特色として、生きた社会的現実の学習を基礎に、国際感覚を養い、実用的語学の向上をはかることに重点をおいた教育上の配慮を挙げることができる。すなわち、この科にある語学・秘書の両コースにおける共通基礎科目として置かれた「地域研究」を重視していることが、そのあらわれである。アメリカ、アジア地域について各分野から総合的に学び、常に日本とのかかわりのなかで外国の現実を学習するだけでなく、国際的視野の養成と語学学習を結合する役割をもになっている。
アジア関係科目をおいている女子大学は少ないが、日本を省みるための外国研究という観点から、日本と歴史的、文化的に関連の深いアジア地域に目を向けた。それは、第二外国語として中国語を置くことにもつながった。
語学コースでは、中学英語の教員免許を取得する。これは国際感覚を磨くと共に、現実の生活活動に生かされる英語を学ぶためである。
秘書コースは、企業で必要な実務的能力を身につけることが学習の中心となる。この科の発足の年は、まさに、オフィス・オートメーション化の急激な進行が始まった時であり、その意味で職場における秘書実務とは何かを問いなおさねばならないという、大きな課題を背負っている。このように、国際教養科は国際化とオートメーション化という、まさに時代の変化の先端をになって出発したのである。