第10節 混乱から発展へ

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昭和21年に入ってから、故寺部だい、現理事長寺部清毅両先生は、教育内容充実のため意欲的に権威ある教授を招いて、当時の物資欠乏時代に精神的な豊かさを学生に与え、活気に満ちた学校生活が始まった。教授陣の充実は昭和22年から23年が最高潮でありその数は、21年の15名ほどが24年には約40名に達し倍数以上に増加した。この時代の卒業生が現在、当時をふりかえって、その充実した黄金時代に浴したことを今でも誇にしていることばをしばしばきくことがある。
21年にアメリカ教育使節団が来日し教育の改革を明示していった。それは従来の日本の教育に対し、デモクラシーの生活のための個人の価値を認め、人間の自由の尊重という思想の観点から次第に変化し、例えば詰込み教科書中心教育に代えて、生徒の成長過程、興味、関心に即応した生活学習、単位学習、ディスカッションなどを強調してきた。

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本校では毎日の出欠はアメリカ式で次第に単位制をとり、集中講義については特にきびしかった。特別講義では講師に中野好夫先生を招き「民主々義とは」小岩井浄愛大教授には「社会思想史講座」を、ドイツ文学者の板倉鞆音教授からは「ゲーテと女性について」などがあった。また寮生は家庭実習に校長宅へ1週間交代で一人ずつ伺い、家庭管理、礼法など故だい先生から直接指導を受けるかたわら、家庭的なあたたかい待遇に接した。22年4月には、進駐軍からの指示で本校にも初めて生徒会が発足し、規約を作り組織化した。それについで専門学校にも授業外の余暇を利用し、自然科学研究会、読書短歌会、政治経済研究会、書道研究会、英語研究会、などが始まり、合唱同好会は、22年5月名古屋市で行なわれた中部合唱連盟主催のコンクールに参加した。また演劇部は、当時講師で来校されていた久曽神昇教授が愛大演劇部顧問であられたことも機会となり、この6月第1回の愛大との交流演劇発表会を豊橋市公会堂で公演した。そのほかスポーツでは、バレー部の活躍、卓球部は高専卓球大会に参加したり急速に活発な行動をみせはじめ、学生は何でも一つ一つ真剣にとりくみ、よき時代のよき学生であった。
このころ国文学を担当しておられた清水孝之先生が作られた詩に音楽担当の鈴木楽子(当時石川)先生によって美しいメロディができあがった。当時まだ校歌も無かっただけに、この歌は、学生の間に親しく口ずさまれるようになった。

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清水孝之作詩
鈴木楽子作曲

潮騒の 音もかそけく
碧海は 見わたすかぎり
みどりなす 安城の野の黒土よ
一粒の麦 生ひたたば
おみならよすこやかにこそ

あたらしく 流れもつきぬ
献身は さだめをひらき
ははそばの 母とう 花の真理よ
とことはの いのち生きなば
おみならよ 清らかにこそ

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思い出の安城 源豊宗
(昭和21年より23年まで女専講師・美術史担当、文学博士・現文化財保護審議専門委員)

安城女専へ私が美術史の講義に出かけるようになったのは、終戦直後の昭和21年の早春であった。そのような運命を私に導いたのは、今愛知県立芸術大学教授の清水孝之君である。清水君はその頃安城女専で国文学の講義をもっていたが、その特に専攻とされる与謝蕪村の研究―すでに今日においては蕪村研究者としての清水君の令名は高い―のために京都大学国文学助教授であった穎原退蔵氏の許に屡々往来していた。私の所へ訪ねて来られたのも穎原さんの紹介であった。その頃私も京都大学で美術史を講義していたのであったが、非常に美術に関心をもっていた清水君の訪問は、むろん日本の美術についての私との対話であった。戦争の終る一両年の日本の危機感に充ちていた頃は、お互に消息も絶えていたが、21年の2月頃であったか清水君から私に安城へ美術の講演に来てくれないかという手紙が来た。そして私は3月だったか4月だったか、東京へ行った帰りに、始めて安城の学校に寄ったのである。その時どの様な講演をしたのか今は覚えていないが、そのあとですぐ、1月か2月おきに美術史の講義に安城へ来てほしいとの依頼がやはり清水君を通じて届いた。その依頼の手紙には、安城は日本のデンマークとも云われ、農産物は比較的ゆたかであるから、私が講義をすませて帰る時には、食糧品をリュックサックにつめて進ぜようというようなことも書かれていた。必ずしも私はそれに惹かれたというわけではないが、食糧事情のどん底にあった当時においては、やはりそれは魅力の一つであった。
私は安城へ行くと3日ほどずつ連続して集中講義をした。その間校主寺部さんの御宅の離れを提供してもらった。
その頃の安城への交通は、今から思えばうそのような難儀をした。汽車の数が少いから、いつも満員で碌に坐ることもできない程であった。私はやっとのことで汽車の窓から乗り込んだが、車輌の中は身動きもならぬ1ぱいの人で、うしろの人の胸の息づかいが私の背中にじかに傳わるのを感じたこともあった。ある時は汽車が名古屋で打切りとなり、電車で乗りつぎながら夜遅く安城に着いた事もあった。しかしそれでも、安城の学園は私に惹きつけるものをもっていた。それは雰囲気というものであろう。そしてそれは何よりも教室の雰囲気であった。あえていうならば、都会の学校には見られない一種の純情というべきものが教室に流れていた。こちらに向けている学生達の眼の中には、信頼と親和とがこもっているのを感じた。
たしか21年の夏だったかと思う。京都奈良の古美術見学旅行が計画された。或は私が発案したのかもしれないが、むしろそれは学生達の願いのおのづからな開花のように実現した。京都の西郊仁和寺に頼んで、ここで3泊の合宿生活を共にした。学生達は全て食糧をリュックに背負ってやってきた。副食には南瓜や茄子や甘藷や思い思いのものをもってきた。参加した学生は40人にも近かったろうか。清水君も二三子さんも附添って来た。仁和寺の広い台所で、寺がやとったおばさん達に交って、当番の学生達がかいがいしく食事の仕度をしていたのを思い出す。弁当もちで一日見学してもどってきて、夕食の飯台についた時のにぎやかな光景も、たのしく思い出される。この見学旅行は、私が安城の講師を辞めた後も、しばしば京都見学の合宿旅行が行われ、私もその案内役によく頼まれたりした。
私は3年ばかりで安城の講師を辞めた。しかしその後も23度安城の学園を訪ねたことがある。最後に訪ねたのはもう89年にもなろうか。私がいた頃とは全く変貌したその鉄筋の宏壮な近代的な校舎を前にして、私はそぞろに昔の木造平屋の質朴な校舎への郷愁を感じたりした。その時も二三子さんが、猿投の如意寺に親鸞聖人伝絵を調査する私と一緒に来て下さった。二三子さんとはこれが最後であった。その時、矢作川を西へ渡ったあたりに、安城学園の高校敷地の標識のたっているのを案内して、学園の輝かしい将来を語った二三子さんの明るい声が、なお私の耳にある。
今も私は東京へ往復するたび、新幹線が安城の南の野を過ぎる時、私がよく散歩した用水のあたりを、いつもなつかしい思いで眺めるのである。それはまた、かつて私が教えた学生の皆さん―もうすでに人生の半ばを過ぎて来られた筈だ―へのなつかしさでもある。

学生時代の思い出 小栗英子
(女専被服科昭和24年卒)

月日のたつのは早いもので、想い起せばもう25年も昔のことになります。私が当時の安城女子専門学校に入学したのは終戦の翌年、昭和21年の春でした。それはあたかも日本国じゅうが敗戦のどん底の生活にあえいでいた頃でした。戦争の傷痕は、あらゆる面に及び、食糧難はもとより物資は窮乏し、ヤミは横行し、思想風俗は混乱の様々。教育界とて終戦後にわかに与えられた自由にとまどいしなければならない混迷の世相でした。
その春は空襲で焼けた都市より地方校へ希望者が集まって、安城女専被服科は定員3倍の狭き門でした。
この頃、学園としては生みの親である、故寺部だい先生が追放令にかかられ、秋には校主、三蔵先生も急逝されて多難な時代だったと思います。
2年になって同好会の文化部委員になり、これからが私の女専生活をすっかり狂わせてしまいました。これはすればする程沢山の仕事があり、また面白いので、同好会の方に身が入り本業がすっかりおろそかになってしまいました。殊に演劇部は大変でした。その頃は熱病みたいに学生間に学生演劇運動が起りまして、各学校とも大変に盛でした。戦争で長く抑圧されていた若い人達の感情が、文芸復興期みたいに一度に吹き出したのでしよう。社交ダンスも盛で、やたらとパーティも開かれました。演劇部をやってゆくためには、先ず演劇の勉強をしなければと、名古屋まで新劇が来るたび観に行き、俳優座の「愛と死のたわむれ」とか、文学座の「女の一生」、新協の「どん底」と授業もサボって出かけました。公演のための準備、舞台稽古、他校とのタイアップのために、沢山の時間とエネルギーが費やされました。たまたま担任の故島崎先生の洋裁の時間に抜け出し、窓の外の日なたぼっこの所で何か打合せしていた所を見つかって、しんから油を絞られましたが、生意気な生徒をあんなに叱って下さった先生の情熱を有難くなつかしく想い出します。
学園も苦難の道を超えられて、今は校舎も近代的に整備され、内容も安定充実した立派な姿を見て本当にうれしく思います。私達の時代は今想うと、物質的にも文化的にも恵まれていなかったけれども、古い木造校舎の陰で恋愛論を語り、人生論を戦わし、その魂の純粋さについては今の若い人に劣るものでないと自負しています。20年余りの時間のヴェールにつつまれているせいか「終戦後のひどい時代だったなあ」と思いながら、つらかった想い出よりも、心ゆたかで楽しかった想い出ばかり、恩師や先輩や級友の顔が重なって浮んできます。

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