創立以来、本校発展のために努力されてきた寺部三蔵先生は、当時理事長並に専門学校長であったが惜しくも病気のため、昭和21年(1946)10月26日現職のままで急逝された。
学校葬は、後継者である寺部清毅先生が葬儀委員長となり盛大な葬儀がとり行なわれた。この日は朝から晴天に恵まれ、その式場である説教場の境内は参列者でうめつくされた。それは今までの三蔵先生の苦難と努力の生涯を物語るものであった。ここに三蔵先生と苦労をともにしてこられた清毅先生の追憶のことばから、故三蔵校長先生をしのぶこととしよう。
昭和21年10月24日、ご逝去の2日前であった。三蔵先生は昨年11月下旬に蒙彊から帰国した清毅先生を同行して、文部省等関係先へ紹介挨拶と公務を兼ね上京された。その日は文部省での折衝も順調に運び、宿泊所である代々木の修養団へ向う途中、上野のやみ市で「まぐろ」を買い夕食は三蔵先生の手料理で好物の「さしみ」を十二分に食された。
翌25日は夕方安城に帰着したが、その夜9時すぎ急に腹痛がおこり間断なくおそいかかる変調に、夜明けを待って更生病院へ急ぎ診察を受け直ちに入院の運びとなった。このときの診断ではチフスということで午后には避病院の伝染隔離室に移され手当てを受けたが、手あつい看護の甲斐なくその夜の9時ごろ容態が急変し、だい先生はじめご家族が駈けつけたときは既に他界の人であった。
結果病名は「悪性大腸カタル」とされ、享年68才であった。
三蔵先生は日頃「校主先生」と呼び親しまれ、同窓生はそのお人柄を、きびしい躾教育と人情深い師、として感銘を深くしている。ご遺徳をしのび、昭和22年10月26日、新築された講堂前に校主先生の像が建立された。
思い出すままに
加藤くりゑ
(『安城学園45年史』より転載)
当時の各教室は至る所の隅々までぴかぴかと光り輝いて、独自の校風を表現していた。地方から多くの参観者がおしかけた時もあった。その後、修養団が心身鍛錬の目的で、教育面にとり入れられ、廊下はついにスケート場と化した感があった。スリッパの裏ゴムは許されなかった。跡が残るからである。滑ることを用心して歩まねばならないので各自は歩行の要領を研究することになった。勿論個性は十人十色で、滑って次々とエンコして喜び騒ぐ生徒もあって、和気あいあいの1コマがあちこちに見られた。このように校主先生の掃除の監督は実に行届いたものであった。
また先生は当時国民道徳要領という、いかめしい教科を来る年も来る年も担当されておられ、生徒は全神経を硬直させて先生の傍へ用聞きに行った。けれども1たび校門を外に遠足出張ともなれば、がらりと変った人間像となられる。苛酷に近い厳しさは校内の先生であり、少年の如き気安さは校外における先生の童顔であった。この両面の性格をほとんどの生徒はキヤツチしていた様子であったけれども、何時も恐ろしさが先に立ってマイナスをしでかすことが多いのである。
校長先生(だい先生)は常々積極的に先頭に立たれて参謀を勤められ、校主先生は専ら訓育面と学校管理を掌握された。この形が自然のうちに出来たようである。訓育担当の校主先生の生徒に及ぼす感化力は、非常に大きいもののようであった。